Z世代が飲み会を断る理由とは――同じ問題を抱える『飲み会』と『会議』

近頃『Z世代』という言葉を、割とよく見かけるようになった。

Z世代、意味合い的には『1996年~2012年に生まれた世代』の事を指す言葉だ。

だが最近はその意味を超えて、“扱いの分からない世代”とか“付き合い方の分からない世代”とか、歯に衣着せねば“使えない世代”という意味を含みつつあるように思える。

だが、本当にそうだろうか?

そもそも世代間格差なんて、どの時代でも当たり前だった。

それが、最近では言葉としては聞かなくなった、けれどどの時代も共通して存在する概念。

 

『最近の若いモンは』

 

である。

うん、今年の流行語とかなら毎年変わるし知らない言葉も山ほど出てくるが、人類史の流行語を考えるのであれば、古代ギリシャから続く『最近の若いモンは』というのは中々の上位に来るのではないだろうか?。

だが、同時に世界では、これを埋めるコミュニケーションツールもまた存在した。

そう、それが『酒』であり、『飲み会』というやつである。

うん、コミュニケーションの取り方は他にも無数にあるが、それはそれとして『酒』というのは便利な道具だったし、『飲み会』というのは胸襟を開く場として長年に渡って利用されてきた。

無礼講にも限度はあるが、それでも多少の事ならば『酒の席の話だ』で飲み込まれる事も少なくなかった。

――が、近年それが通用しない世代が現れた。

そう、いわゆる『Z世代』というやつである。

彼らは飲み会に参加しない。

コスパが合わない』とか『今日は行きません』で断られてしまう。

すると、コミュニケーションの万能ツールとして飲み会を使ってきた世代は、困ってしまう。

仕事の場では出来ない話をしたい、話を聞きたい、そうは思ってもその場に出てきて貰えない。

この戸惑いが大きくなり、戸惑った末に、最終的には『話が出来ない相手』となってしまう事も少なくない。

しかし、それは残念な話だ。

おそらくどちらの世代も、進んで仲違いしたいとは思っていない。

ただ、上手く嚙み合わないので諦めているだけだ。

人は誰かと付き合う時、必ず自身の価値観や経験を元に、『期待している反応』や『想定している反応』というものを作っている。

だが、それと違いすぎる反応が返ってきてしまうと、どう反応して良いか分からなくなる。

これが『噛み合わない』原因だ。

要は『情報不足』に過ぎない。

そんなわけで今回は、そんな情報不足を少しでも埋めるべく、Z世代と上の世代、それぞれの価値観を整理していってみたい。

 

飲み会に対するコスト評価の差

まず、Z世代の言うところの『コスパが悪い』という部分から、『飲み会のコスパ』を考えてみたい。

うん、上の世代は『そんなの考えた事が無い』と思うかも知れないが、実はちゃんと考えているのである。

上の世代も飲み会に対して、『予算・時間・翌日の疲れ』は考えている。1次会で帰る人、2次会まで付き合う人、3次会まで突き進む人、これが分かれるのは『コスト計算の結果』が違うからだ。

上の世代はこの『コスト』に対して、『顔を売る』『空気を読む』『可愛がられる』という暗黙のリターンを計算していた。

『コミュニケーションを取ることによって得られるリターンの期待値』が『コスト』に見合っていたので、上の世代も飲み会に行っていたのだ。

一方でZ世代は、そうした『不確定な期待値』に期待しない。

すると上の世代が期待していたリターンが、Z世代では限りなく0に近くなってしまう。残るのは『予算・時間・翌日の疲れ』というコストだけだ。

文字通り『コスパが悪い』わけである。

なら、その時間で休んだり、趣味にいそしんだり、副業を行ったり、勉強した方が良いに決まっている。

上の世代は、『いやそれでも付き合いによって得られる物も』と思うかも知れない。

だが、私は割と飲み会には顔を出す方だったが、10人・20人の懇親会となった時、多くの場合発生するのは、3~5人くらいの集団に分かれて“最近の仕事の話題で盛り上がる”とか“昔話に花が咲く”とか“説教が始まる”とかである。

更にはその中であぶれて誰とも殆ど話さない、という事も十分にあり得る。

得られる物は実に乏しい。

この場合、飲み会で得られるのは『参加した』という事実のみとなってしまう。

・数時間拘束される

・翌日に疲れが残る

・得られる情報や人間関係が不確実

上の世代は、得られる情報や人間関係は不確実にせよ、その時にしか得られない物もある、としてここに期待値を見出した。

Z世代は、不確実にしか獲得できない情報や人間関係に、期待値を見出さない。

これは飲み会に限った話ではない。
若年層の「期待値の扱い方」は、他の分野にも表れている。

例えば『宝くじ』なんかでもそうだ。

宝くじは昔は『夢を買う』象徴として人気を誇った。人々はいわば『期待値』を買った。だが、今の若年層はその期待値に夢を見ない。コストはコストと計算する。

すると、当たり前だが宝くじの採算は個人単位では赤字になる。

よって宝くじは売れなくなり……近年、若者の宝くじ離れによって、その売り上げを急速に落としているわけだ。

 

なぜ『飲み会=ローコスト』だったのか――かつての職場環境という前提

世代ごとに『期待値』に対する考えの変化は分かった。

けれどそれはそれとして、『コミュニケーション』を取る手段として有効なのは変わりないだろ、と私くらいの世代の人は思うのではないだろうか?

それは事実だ。

だが、それも環境によって意味合いが変わってくる。

時代の変化による環境の変化を、ここで少し整理してみよう。

まず、『仕事中の関係構築』は確かにコストが高い。

何せ仕事中は“時間が細切れ”で“互いに気を遣い”、その上に“失敗すると尾を引く”という問題まで発生する。

ところが飲み会なら、“まとまった時間が確保できる”し“気遣いのハードル”も下がる上に、“失敗は宴席の上”で後々笑い話にさえ使えるかも知れない。

『数時間+数千円』の投資で、日常の摩擦コストが長期的に低下する。

これは大変にコスパが良い投資と言える。だがそれは――

・少人数

・固定メンバー

・長く同じ現場で働く

という前提が必要になる。

ところが今のZ世代にはその前提が共有されない。

Z世代の少なくない割合が

・転職の可能性

・同じ人と長く働く保証がない

・人間関係は流動的

という中で生きている。

つまり以前の『数時間+数千円』の投資で、日常の摩擦コストが長期的に低下する。というコスパ計算が成立しないのである。

将来の摩擦低減、というリターンが見えなければ、そりゃあ飲み会にも参加しなくなる。

更に言えば、『ネット環境の身近さ』というのもリスク管理に関わってくるだろう。

私くらいの年代だと、『酒の席の失言』は笑って流されるし、後からフォローも出来るし、翌日に修復も効くのを知っていた。

だがZ世代はセクハラ・モラハラで曖昧なハラスメント判定の話を嫌というほど見てきただろうし、ネットリテラシーが高ければ録音・切り抜きのリスクも考えるだろう。何らかの失態が何かの間違いでネットに挙がったら目も当てられない。

うん、バイトテロとか醬油差しペロペロ事件とかで、承認欲求に振り回される人間が目立つ一方、そのリスクを目の当たりにしてきたのもまたZ世代だ。

そこまで極端な失態でなくとも、ネットは燃料さえあれば燃やす人が発生する。

期待値を多少プラスに見積もったとしても、下振れは地獄だ。

世代によって飲み会のコスト見積もりが変わったのは、環境自体の変化も大きいと考えられるわけだ。

 

Z世代はすぐやめるは本当か? Z世代の労働意識

さて、Z世代で飲み会以外によく聞かれるのは、『すぐ辞める』という話だ。

うん、転職代行サービスなんて物もある世の中で、確かにそんな印象を受ける人も多いかも知れない。

そんなわけで、具体的なデータは無いかな? と思い具体的データを持っている厚生労働省のサイトから、厚労省が出している 「新規学卒者の離職状況」の資料に、学歴別の「就職後3年以内離職率」の長期推移にのっとって離職率変化のグラフを作ってみた。

※「Z世代帯は出生年定義+卒業年換算による目安」です

これがその推移だ。

こういうグラフは、個々の数値そのものより、“どの時期に跳ねたか”を見るのがコツとなる。

経済的事件と照らし合わせ、変化のポイントに何があったかを押さえるのだ。

まず最初の急上昇、これは『バブル崩壊』の影響で間違いないだろう。

終身雇用神話が吹き飛び、企業側の教育投資も縮小。

『入ったけど、思ってたのと違う』+『会社も面倒見きれない』のコンボで早期離職が増加。

2005年から急低下しているのは、アジア向け輸出が持ち直し、輸出と生産が回復した影響だろか、多くの人が必要になると共に離職率が低下。

2009年に急上昇しているのは考えるまでもない、『リーマンショック』の影響だ。

リーマンショック2008915日なので、時期的にドンピシャだろう。

一方で、2019年はこれと言って直近に経済的事件が思い浮かばない。

なのに、離職率は明確に上昇している。

おそらくこれが、『Z世代はすぐ辞める』という印象の根源だろう。

だが、経済的事件でない話なら思いつく。

それは『働き方改革』だ。法的な制度としてスタートしたのは201941日、最初は大企業から適用が始まり、中小企業に施行されたのは202041日、無論その前から検討時期はあったのだから、これがZ世代の労働観に影響を与えたことは想像に難くない。

つまりZ世代が離職しやすい理由は、『働き方改革』に伴う価値観の地殻変動のせい、と考えられるわけだ。

うん、従来の価値観を刷新した『ワークライフバランス』とか限られた時間での『生産性の向上を目指す』とか『個人のライフスタイルに合った働き方』とか、Z世代の行動方針と重なるのではないだろうか?

つまりZ世代とは、少なくとも制度上は『政府が要求した社会人像』を実行している世代なのだ。

(おそらく最後に離職率が低下しているのは、新型コロナ流行による、転職リスクの増加によるものではないだろうか)

 

こうして整理してみると、世代間の主な衝突要因は『価値観の違い』でさえなく、前提条件の違いを共有できていない、という時代の変化であると見て取れる。

Z世代に『昔はこうだった』と説く事も、上の世代に『今は違う』と切り捨てる事も、どちらも生産的ではない。

必要なのは、『どの環境では、どの行動が“得”になるのか』という前提条件の共有だ。

 

ではZ世代を飲みに誘うには?

前提条件を共有しようにも、『共に話す時間を作れなければ、共有できない』という問題はそのままだ。

というわけで、ここまで整理したところで原点に立ち返り、おそらく一番聞きたいであろう話し、『で、どうやって誘えば良いんだ?』について考えてみたい。

ポイントは『コスパ』だ。

うん、今も昔も人はコスパが良いと期待できる方に動いている。

ならば、Z世代にも『コスパ』を示せる事が飲みに誘える条件になる。

人間関係のコストは、主に3つに整理できる。

  1. 学習コスト(仕事の習得速度・暗黙知へのアクセス)

  2. 修復コスト(ミスの取り返し・助け舟の出しやすさ)

  3. 摩擦コスト(日常のストレス・無駄な確認、説明)

ようは、『飲み会に支払うコストより、この3つのコスト圧縮の方が大きい』と考えさせることが出来れば、Z世代が飲み会に参加する可能性が上がるわけだ。

更に言えば、『人間関係を強化する』メリット自体も、彼等は考える。

彼等はそれを無視しているわけでは無い、実際、名目が明確である『歓迎会』や『送別会』なら、彼等も参加率は高いのではないだろうか? 単に、漠然とした『懇親会』では理由が弱いのだ。

であれば方針は簡単だ。

得になる飲み会を計画すれば良い。条件はザっとこんなところだろうか?

  • 目的:明示(雑談/情報共有)

  • 時間:短時間(12時間)

  • 人数:少数(35人)

  • 退出:自由

  • 強制:なし

  • 酒:必須でない

ハッキリ言おう、『出やすい会議』をベースに考えるのだ。

まず、『目的を明示されていない会議』なんて誰も参加しない。

次に、『拘束時間不明の会議』なんて逃げられて当然だ。

更に、『無駄に大人数が集まる会議』は自分が参加する意味が薄れる。

最後に、『議題が終わったのに続く会議』なんて出たい人間はいない。

後は、参加に強制力を持たせず、飲み会という体ではあるが酒も別に飲まなくてよいとする。

うん、そもそも酒は『無礼講の言い訳』のようなものだ。

考えてみよう、費用的には『酒を飲まれない』方が安くつくのだ。酒を断られることを、何も不満に思う必要などない。

『得られるものが明確である』となれば、コスパは改善する。

というか、前々から思っていたのだが、そもそも『部署全員が一か所で宴会をする』必要などどこにあるのだろうか……いや、私も『大宴会』はやったことがある、だが、特別にそういうイベントでもないのに全員集める意味がない。

『普段は無い交流を』と言ったところで、どうせ知ってる人間で固まるのだ。

むしろ、3人~5人くらいで小分けにして、バラバラに飲みに行かせて交流を持たせた方が良いのではないだろうか?

無論、『大宴会』にも価値はある。

それは『後からの話題性』だ。

『あの時の』から話始められる、全員が共通して持っている話題。これは話の取っ掛かりとしてコスパが良い。

だが、そんなのはせいぜい1年に一度か、さもなくば数年に1度で構わない。

うん、時代が変わっているのなら、宴会のスタイルも変えても良いのではないか、と私は提案するわけだ。

 

まとめ

そんなわけで、飲み会に対する世代間の意識の差を、少し整理してみた。

これはハウツー記事ではない。

経験談でもない。

というか、私はZ世代と共に仕事をしたことがそもそもない。

単に、ネットに流れている情報や、ChatGPTに集めてきてもらった資料に、人の行動原理を当て嵌めて整理しただけの記事である。

だから、成功を約束する物ではないし、そもそも職場の人間関係を『何も聞いてない第三者』が想定しきれるわけもない。

ただ、『自分とは違う見方をする人がいる』ことと、それはおかしな事ではないのだ、というのは伝わったのではないだろうか?

人間関係は『相手が間違えている』と断じた瞬間に終わる。

だが、状況を整理し、順番に考えていけば、『何故相手はそう考えているのか』は見えてくるものだ。

この記事がZ世代との付き合いに悩むXY世代や、上の世代との付き合いに困っているZ世代の人々の一助になることを願っている。

 

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📘AI共読のススメ

本記事はあくまで『環境変化の整理』として書かれており、個々の疑問や細かい理解を助けるに足るものではありません。

必要な情報が足りない、欲しい前提が不足している、と思われる方は、本記事を取っ掛かりに、各々AIを利用して状況の整理をお勧めします。

ChatGPTリンク

・この記事を要約してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/20/050000

 

Z世代は聞いたことがありますが、最後にあったX世代・Y世代とは何のことですか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/20/050000

 

Z世代はすぐ辞めると言われますが、その原因を『働き方改革』に求める考えに妥当性はありますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/20/050000

 

・この記事では『出やすい飲み会』と『出やすい会議』を同じ整理にしていますが、飲み会と仕事の整理を同じにした理由は何だと思いますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/20/050000

民主主義の利点とは何か――合理的だが進化していない制度 (What Is the Advantage of Democracy?— A Rational System That Has Not Evolved )

解散総選挙が近づいてきた。

――が、私は特に支持政党とかを表明するつもりは無い。

うん、私のブログは基本的に『構造論』を中心にしており、『感想』は個人の体験に限定しているため、選挙という社会的な活動にブログとして記事を出すと、立場がブレてしまうのである。

加えて言えば、私は構造的に現代の政治システム自体が脆弱に過ぎると考えており、構造・システムで評価したら選挙と政治のシステム自体を『古代から進化してない』で整理して『現代社会で維持するのは惰性でしかない』で切って捨てて、合理的なシステムの提案に入ってしまう。

なのでまぁ、選挙前にだせる選挙関係の記事は知れているのだが……それでも振れられるテーマは無くはない。

 

それは『民主主義の合理性』だ。

 

うん、選挙前に制度批判をしてもどうにもならんので、合理性の分析へ進むわけだ。

民主主義は普通、『より良い政治を目指すために、国民が代表を選ぶシステム』だと認識されているかも知れない。

だが、現代民主主義の合理性はそこにはない。

証明は考えるまでもない。

これまでの日本人の経験から分かるだろう。

民主主義は悪政を防ぐことは出来ていない。

なら、民主主義の合理性とはどこにあるのか?

そんなわけで今回は、私がこの状況で唯一触れられる政治記事、『民主主義の合理性』について触れていきたい。

 

政治的合理性に欠ける政治制度

さて、一口に『政治制度』と言っても色々ある。

・民主主義(議員内閣制/大統領制半大統領制など)

権威主義・独裁(一党独裁/軍事政権など)

君主制・貴族政

・共和制

いくつかを複数組み合わせたりもするので、ここに書いているより随分細かく分かれると思うが、政治制度は国の事情によって様々だ。

では、この中で『一番優れた実績』を出せそうな制度はどれだろうか?

現代人ならここで『民主主義』や『共和制』を挙げたくなるだろうが……構造的に考えれば答えは『君主制』や『貴族政』という事になる。

うん、君主制や貴族性は、いかにもダメな権力者が世の中を支配していそうなイメージがあるが、それはあくまで現代の娯楽作品からくるイメージだ。

実際にダメである記録もあるが……では現代の政治家が、確実にそれより素晴らしい政治が出来ているか、と言えば大きな疑問符がつかざるを得ない。

うん、現代の世界中のあちこちの国の経済が追い詰められているのも、かなり力業で進められた移民受入れ政策も、どう考えても現代の政治システムが良い政治を実現できていない証明だ。

実績面だけで考えても、別に民主政や共和制に、政治機能として君主制・貴族政への優位があるとは思えないが、構造を考えるとそれも仕方ない、となるのが民主政だ。

当たり前だが、君主制・貴族政は、『政治に携わる人間』に高レベルの教育を施して、能力と人格を磨かせることで、政治を安定させようという政治システムだ。

当然、要求される水準はそれだけ上がることになる。

だが、民主政は違う。

確かに、『有能な候補者』は民主政でもいるだろう。国民という圧倒的な母数を持ってすれば、個人を磨くだけの君主制・貴族政が作り出す『政治家』を、能力的に上回る人間はいるはずだ。

――だが、そんな優秀な人間はまず選ばれない。

何故なら、『代表を選ぶ』のは国民だからだ。

未来を見据えた成長戦略や、高度な知見からの主張は、大多数の理解と支持を集めるのが難しい。

大抵は、分かり易い発言をしている人間が、支持されることになる。

つまり民主主義で選ばれる政治家の水準とは、『国民の政治意識と政治能力』に大きく左右されることになるわけだ。

別に政治為のの教育を受けたわけでもない大多数の国民は、高確率で、その為の教育を受けた人間の政治能力を下回る。

うん、代表例はフランス革命だろう。

フランス革命でフランスは王政を打倒したが、その後にやってきたのは知っての通り、『恐怖政治』である。

うん、なんか『フランス革命で国は民主主義となり、人々は平和に暮らしました、めでたしめでたし』な謎の話を聞くことも多い気がするが……確かに当時の貴族政治は腐敗していたにせよ、では共和制が上手く行ったのかと言われれば更に悪い恐怖政治が発生、最終的にはナポレオンの帝政に繋がっていったわけだ。

つまり、民主主義は国民全体の政治レベルに大きく依存する……けれど、国民は基本的に政治の専門教育なんて受けているはずがない。

よって、どちらの方がよりマシな政治家が誕生する可能性が高いか、という話で言うのなら、おそらくは君主制や貴族政になるわけだ。

だが、では民主主義が非合理であるのか、というとまた別の話になる。

 

何故、今現在において、多くの国で民主主義が採用されているか――それはより良い政治を目指した結果ではない。

最悪を回避するための選択だったのだ。

 

民主主義の利点

さて、『利点』というのはあらゆる『期待』や『希望』や『願望』をそぎ落として、最後に機能として残ったものだ。

うん、期待や希望や願望が『利点』になり得るのなら、宝くじで1等取って3億円とか6億円当てるのは『宝くじの利点』になるが、そんなはずはない。

宝くじで1等を当てるのは、再現性の無いただの奇跡だ。

民主主義で素晴らしい政治家を引き当てるのも同じ。

民主主義は一応、国民の意思に結果が左右される設計にはなっているので、再現性が皆無というわけでは無いかも知れないが、それは『国民の意思』に左右された再現性であり、『制度の機能』としての再現するわけでは無い。

こうなると『民主主義の最終的な責任者は国民なのだから、ダメな政治家が選ばれても国民の責任である』という主張は出るだろう。

これは正しい。

民主主義は国民に国の政治の最終的な責任を委ねているので、確かにダメな政治家が誕生しても、それは国民の責任ではある。

ただ、ダメな政治にも2種類ある。

・民意を無視した政治

・民意に従った結果、ダメな結果を招いた政治

後者は国民の責任だが、前者は民主主義の理念を無視している。

では、民主主義の理念を無視した政治家はどうなるのか?

『落選』するのである。

そして、これこそが『現代民主主義』における『唯一の利点』だ。

 

ダメな人間が政治家になった時、革命ほどの危険も労力も無く、誰かの命を奪う事もなく、血を流さずに政治家の首を挿げ替えることが出来る。

 

優れた政治家を選ぶ機能などない。

優れた政治を約束する機能もない。

民意を政治に反映する機能もない。

ダメな政治家が出た時に、その首を挿げ替えることが出来る。

これが、現代世界の多くの国で行われている、民主主義という政治システムの唯一にして最大の機能であり、利点だ。

言っておくが、私はこれを非常に高く評価する。

理由は簡単、人は間違える生き物だからだ。

そして民主主義は、間違いを最も許容するシステムだからだ。

他のシステムは、政治家が間違えた時、その間違えを政治家本人が認識し、分析し、対応しなくてはならない。

これは非常にコストが高い。

人はどんな立場であれ、大抵の場合『自分の間違い』を認めるのは苦しいからだ。

真に有能な指導者なら、間違えに気付いた瞬間に分析に入り、対応を考えるだろう。

そして、全ての王・貴族がそんな人間ならば、おそらくは君主制は打倒されなかった。

うん、全ての世代で名君が続くなら、そりゃあ国民は王を敬愛しているだけで良いし、王は10年後、20年後と言わず、半世紀先まで見据えた手を打つことも出来る。

これほど素晴らしい政治システムは無い。

だが、現実にはそんな理想は起こりえない。

名君が語り継がれるのは、そんな君主が少ないからなのだ。

だからこそ民主主義が大きな意味を持つ。

民主主義は、一番高コストな『間違いを認める』を、選挙に委ねて政治家個人から切り離しているのだ。

これが、私が機能面から考える『民主主義の合理性』である。

実に夢の無い話だ……

だがそれで良い。

夢見がちな理想主義を機能として実装すれば、間違いなく事故る。

素晴らしい政治家を夢見るのではなく、ダメな政治家を切り捨てる現実を選んだ。

より良い政治を目指すギャンブルよりも、無難な政治を選ぶ現実主義。

民主主義は、その意味で極めて合理的な政治システムなのである。

 

私が現代民主主義を『古代から進化していない』と評する理由

そんなわけで私は、『民主主義』というシステムを低く評価はしていない。

むしろ、最悪回避のシステムとしては高く評価している。

だがそれはそれとして、『民主主義というシステム』が、古代から現代までまるで進化していない、とは思っている。

例えば『代表の選出』だが、これは古代ギリシャ古代ローマ頃に比べて『元老院』といういわゆる貴族院こそ無くなったし、当時に比べて性差や財産の有無による政治参加への影響力こそ変わったが、『代表を選出』して彼等に政治の意思決定を委ねる、という仕組みは変わっていない。

『多数決』にしても、これは古代ギリシャ古代ローマの頃から、何も変化していない。

『大勢の意見は大勢の意思が反映されている』と言えば聞こえは良いし、『大勢が正しいと考えた方が概ね正しい』と言えばそれっぽいが、これはつまり『より良い意見をまとめられない時に、一番大勢に責任が分散できる』だけの決定方法でもある。

つまり、情報量も、情報処理も、社会規模も、技術水準さえ爆発的に向上したのに、判断方法だけは据え置きになっているのだ。

当時は『それしか合理的手段が無かった』からその手段が採用された。

それは分かる。

だが現代は?

昔からこうだった、昔からの実績がある、以外に今の方法を継続し続ける理由とは存在するのだろうか?

 

民主主義で政治を動かす、という現実認識も大して変わっていないように見える。

確かに、昔に比べて性差や財産といった選別の基準は撤廃され、より広い意志を政治に反映できるようには変化した。

だが、それは『政治的合理性』というよりは、『人権』というの他の思想による影響だ。

確かに『教育水準』は上がった、だが国民に最小単位の政治家であることを求める民主主義というシステムを構築しながら、国民の側に『政治判断の教育』は行われていない。

古代の民主主義は、おそらく『民主主義が国民に最小単位の政治家であることを求めるシステムである』なんて意識はなく、ただ漠然と『大勢の意志を反映する政治』として作られた。

だが、現代もそこから一歩も脱却できていない。

だから現代民主主義は『最悪を回避するシステム』としてしか機能しない。

最初から『政治を良くするための土台整備』を放棄しているためだ。

 

膨大なデータは存在する、電子機器の発展はシミュレーション性能も向上させた、AIは情報の整合性さえ確認できる。

判断を補助する方法は無数に整備された。

だが、いまだに国会は、代表質問があり、それに答弁が行われ、それにヤジが飛んだりする?

これ、国の意志決定は、古代ギリシャ・ローマの時代の時代から何が進歩したというのだろうか?

人間は間違える、そして民主主義はその間違いを正すことが出来るシステムである。

これは良い。

では、『間違えを減らすための設計』は何か加えられているのか?

現代の国会答弁を見て、『これは政治的間違いを減らす工夫が凝らされている』と感じる人がどれだけいるのか?

 

私は『民意』を反映する政治システムとして、『クラファン型政治システム』を以前に提案はしている。

だが、これはそれ以前の問題だ。

民主主義はそもそも古代から進歩しておらず、その価値を“民意を反映できる政治システム”と誤解されつつ、実態は“古代に作られた非常停止装置”のまま、

うん、国民は確かに議員を選出するが、その議員が“民意を反映しない活動をすることが多い”なんてことは、今さら説明するまでも無いだろう。

民意を反映すると熱弁出来るのは野党の時だけで、政治の実権を握れば、安泰なその期間は“民意”を盾に好きに振舞える。

無論、政治家全員がそう振舞っている、と主張するつもりは無い。

この人は真面目に国民のために頑張っている、と主張できる政治家もいるだろう。

だがそれは“政治家個人の資質”であり、つまりは『君主制にも名君はいる』と主張するのと変わらない。

私はシステムを提案する側として、“個人の資質”など提案の前提に入れない。

最悪の人間しない無くても、それでも最低限機能するし、本当に二進も三進もいかない人間しかいないなら、好き放題させることなく速やかに緊急停止できる。

システムとはそうあらねばならないからだ。

 

まとめ

というわけで、選挙が近いから選挙記事をやりたいのに、システムや構造を取り扱うブログとしては選挙活動の記事にしてしまうと範囲が逸脱するので、『民主主義というシステム』についての記事にしてみた。

うん、私は現行の民主主義を批判はする。

だが反民主主義というわけでは無い。

むしろ、現代の民主主義の設計が古すぎて、意思決定システムとしても、民意を反映する仕組みとしても、暴走時の緊急停止システムとしても、どれもこれも現代という時間の流れの要求水準に届いていない、と言っているのだ。

ハッキリ言って、私の提案する民主主義システムの実現は難しい。

何故なら、国民が政治の実権に近づくというのは、『政治家の持つ権力』を基本的に削ぐ形になるからだ。

そして、その政治家が現代の決定権を握っている限り、基本的には実現困難である。

うん、民主主義の理想を実現するという事は、政治家の権力を削ぐことであり、実現する前の実権を持っている政治家が『自分の権力を積極的に削ぐシステム』に舵を切ろうというのは、よほど未来を見通して、未来に繋がるシステムを構築する意思がある人間だけだ。

けれど、いずれは民主主義は、そちらへ向かうしかなくなる。

何故なら、古代ギリシャ・ローマ時代から進化しない方式では、巨大な国家の意思決定システムとしてはあまりに不完全かつ不合理だからだ。

基本的に、権力者が権力を放棄するのは、このままでは国が終わるという状況で、かつその権力者に先見の明があった場合のみだが……それでも、民主主義の実権は名目上であれ何であれ、国民にある。

なので、その状況が発生する前から、『今の民主主義は何が問題であるか』だけでも、認識しておくことには意味がある。

というわけで、取り敢えず選挙が近い状況に合わせて、民主主義についての記事を書いてみた。

民主主義は悪いシステムではない。

掲げている理想も悪くない。

だが、現行のシステムはその理想に遠く届かないし、仮に良い政治が行われたとしても、それは現行の民主主義システムにおいては政治システムが良かったのではなく、君主制の政治において名君が生まれたのと大差ない幸運に過ぎない、という事は認識しておいた方が良いのではないだろうか。

 

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ChatGPTリンク

 

質問集

・この記事を要約してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/19/120938

 

・この記事の示す歴史的知見は正しいですか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/19/120938

 

・この記事は民主主義が古代ギリシャ・ローマから進歩していないと主張してるが、現代の民主主義との共通点を具体的にしてください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/19/120938

 

・この記事は本当に反民主主義的内容を含んでいないのですか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/19/120938

雪道で滑った時、「何もしない」が通用しない瞬間 (When “Doing Nothing” Fails on Icy Roads )

北海道に移り住んで1度目の冬。

道は凍る、雪は降る、けれどそれはそれとして食料品の買い出しに運転は避けられない、という状況なわけだが……先日、見事にスリップした。

どれくらい見事にスリップしたかと言えば、おそらく車から落ちた氷の塊か何かを踏んで、軽く車体が浮いた拍子にグリップが完全に無くなって、接地した時には車が言う事を聞かなくなる程度にはスリップした。

うん、正直かなりヤバいと思ったわけだが、何だかんだで無事だったからこうして記事を書いている。

そんなわけで、今回はスリップした時の対処と、よく言われている微妙な勘違い、について取り扱っていきたい。

 

スリップでありがちな事故の起き方

まず定番でよく言われているところから入っていこう。

何故スリップで事故が起きるのか、だ。

スリップで大事故を起こす定番の場所と言えば、トンネルの出入り口(特に出口)や、橋の出入口になる。

何故か?

路面環境がいきなり変わるからだ。

トンネルの中は、水も雪も侵入しにくい、だからトンネルの外では道が凍結していても、トンネルの中は乾いている事が多い。

橋は下に『地面』という熱の逃げ場がないので、外気の影響を大きく受けやすい。

よって外気の影響を受けやすく、普通の道路では凍っていなかったのが、橋の上に進んだ途端に凍っていたりする。

当たり前だが、路面環境が変われば車の挙動が変わる。

車はどれだけ豪華な電子制御を積もうが、最終的にはタイヤのグリップで走っているのだから当たり前だ。

そしてグリップが無くなると、概ね車は思った通りの走行ルートからズレていく。

理由は説明するまでもなく、タイヤが地面を捉えてないからだ。

そして多くの人は、概ね二つのうちのどちらかを行う。

 

1.車を立て直そうと、ハンドルを切る

2.車を止めようとブレーキを踏む

 

そして概ねその両方で事故る。

『グリップが無い』時はまだ良い。

問題は『グリップが戻った』時だ。

車を立て直そうとハンドルを切っても、グリップが無ければ車は反応しないか、反応しても非常に鈍くなる。だからもっとハンドルを入れ……グリップが戻った途端に急カーブして事故る。

ブレーキを踏んでも、グリップが無ければ止まらないし、ABSが反応すれば(反応するところまでブレーキを踏めない人も多いようだが)普段は不慣れな振動にも見舞われる。そしていきなりグリップが戻れば、それまでからは想定外の衝撃で急ブレーキが入り、ハンドルを誤操作する。

まぁ、ABSは不慣れな人には驚くかも知れないが、あれが無いとスリップ中にハンドルが更に効かなくなって危険なので、必要なのは間違いない。

うん、どっかで急ブレーキに慣れて、ABSは経験しておいた方が良いと思う。

 

そして、ここで言われるようになるのが、『スリップしたら何もしない』だ。

ハンドルも切らない、急ブレーキも踏まない、出来るだけそのままの走行状態を維持して直進し、グリップが戻った時にそのまま走行に復帰する。

これは正しい。

が、分かり易いだけに無用な勘違いを発生する。

では、この一般的対応は、どんな勘違いを発生させ、どんな状況で事故を起こすのだろうか?

 

『何もしない』という勘違い

さて、スリップしたら何もしない、というのは直進でいきなり路面状況が変わった、という条件では確かに正しい。

――が、何もしないとそのまま事故るケースも当然ある。

それが、今回私が遭遇した、『何かに乗り上げて一瞬タイヤが宙に浮き、タイヤが接地した途端、グリップが無くなってる』というケースだ。

このケースで何が危ないかと言えば、なんと言っても、これが発生した時点で車はもう『直進していない』ということだ。

うん、この状況になった時点で横滑りしているので、『何もしない』を貫いて我慢したら、そのまま壁に突っ込むか対向車線に出るか、差も泣ければ道路から転落する。

どれくらいの確率で生存するか、怪我で済むか、車だけの被害に収まるかはまぁ、何に突っ込んだか次第で運に任せることになるわけだ。

『何もしない』で我慢すれば事故を回避できるのは、あくまで『路面状況が変化しただけ』という条件と、『何もしなくてもグリップが回復する』という前提が必要になるわけだ。

うん、この条件は雪が少ない地域なら、かなり成立する。

路面の障害物に乗り上げて、そのままグリップを失う状態とは、『一定以上の固さの障害物』か『タイヤを取られるわだち』があり路面が一定ではなく、しかも『路面が全体的に凍結している』という条件になるわけだが、日本のアスファルト舗装の道路で『タイヤが取られるわだち』と言えば、その原因は雪くらいしか普通は存在しないし、一定以上の固さの障害物も、日本の道路はソコソコ頻繁にパトロールカー(たまに道路で見かける黄色いアレ)が処分して回るので、路上で遭遇する条件はそれなりに限られてくる。

例えば、『雪国で車の下で凍った雪の塊』が何らかの理由で落下したとか、そんなに頻繁に落ちている物でもない。

うん、雪国で走っていると、たまに直線なのに路肩に落っこちたり雪の壁に突っ込んでいたりする人を見たりするが……数多い車が走っている中で『たまに見る』程度の頻度なので、そんなに高頻度ではないはずだ。

――が、一冬の発生確率が500人に1人くらいでもその1人になったら最悪だし、出来ればその1人になっても事故を回避したいのは当然だろう。

けれどそんな事態が発生した時、スリップしたら『何もしない』を維持して頑張ってしまうと……そのまま事故になってしまう。

ではそんな事態になった時、どんな選択肢が取れるのだろうか?

 

無理をさせない無理をしない

まず大前提として、『車が制御不能』になった時に、合理的に選べる選択肢は2つしかない。

 

1.何とか制御を回復して持ち直す

2.出来るだけ被害が出ないよう祈る

 

これだけだ。

なお、『何もしないで復帰するのを待つ』というのは、その状況では成立しないので合理的選択肢からは外れてくる。

まず簡単な方から行こう。

それは2だ。

やることは簡単、思い切りブレーキを踏んで、車が出来るだけまっすぐに走るように曲がった方とは反対側に少しだけハンドルを入れよう。

ABSが効いて車がガタガタ揺れると思うが、ABSが効いているという事は『ただ滑るより少しだけハンドルが効きやすくなっている』という事でもある。

これをすれば、下り坂でも無い限り間違いなく減速する。

方向は制御不能に感じるかも知れないが、どうせこの状態になってる時点で全部制御不能だから安心して良い。

やるのはただ『出来るだけ速度を落とす』ことだけだ。

普通なら何かに突っ込んだりすると思うが、『スピードが落ちている』状態なら被害は少なくなる。

ならハンドルも放棄して良いのでは? と思うかも知れないが、ハンドルを放棄しないで、出来るだけ車を前に向けておく努力をした方が良いのは、対向車線が怖いからである。

うん、少しでも制御出来たら、対向車線を走ってくる車がいても回避できるかも知れない。

ぶつかったらもうどうしようもないが……

うん、これは『事故を回避する方法』ではない、『高確率で事故るけれど、少しでも被害を減らす方法』だ。

兎に角ブレーキ、いち早く減速、これである。

 

一方で滑った瞬間に『まだ何とか出来る』と感じるようなら、1を選ぶことになる。

やる事の方針は2とあまり変わらない、車が振られた方向とは逆にハンドルを少し入れて、滑った車の方向を前へ戻す。

違うのはアクセル、こっちではブレーキを踏まず、アクセルを維持する。

もし抜くとしても少しずつ抜いて、車の速度と大きなズレが発生しないようにするのだ。

先ほどと違うのは、『路面とタイヤの動きが近い』という事だ。

グリップが完全に効かなくなるのは、路面とタイヤの動きの差が大きくなりすぎて、完全に滑るからだ。ABSがブレーキを頻繁に抜いてタイヤの回転を維持するのは、この速度差が大きくなりすぎると、尚更制御が効かなくなってしまうから、というわけだ。

そして、『一番車の制御が効く』状態とは、例えスリップしていたとしても、『タイヤと路面の動きが合っている』状態になる。

この状態を維持すれば、僅かに発生する摩擦を拾う事が出来るわけだ。

そして車が左右に振れる方向とは逆に、ハンドルを毎回少し入れ続ける。

一度に多く回すとどこかでグリップが効いた途端に振り回されて、今度こそ制御不能になってしまうので、まっすぐに戻すつもりまでハンドルを切らず、あくまで振れを止める程度の気持ちでハンドルを入れる。

おそらくそれでも振れ過ぎて車は逆を向くので、次はまた同じことをする。

これを繰り返せば、徐々に振れは少なくなっていって、車を直進に復帰することが出来るわけだ。

(なお駆動輪が前輪のみの場合、前輪が舵と駆動輪を同時に担当しているため、車が前輪に振り回されて復帰困難となるので、私としてはブレーキを踏んで祈ることをお勧めします)

 

もっとも、簡単に言ってはいるが、スリップして車のグリップが効かない状況で、それをとっさに出来るか、と言われたらかなり怪しい人が多いとは思うのだが……

けれど予め『滑る』という状況を経験しておけば、大分違う。

そして実は、日本ではちょっとマイナーなのだが、そうした経験を練習する方法もあったりするのだ。

 

スキッドカー講習

実は車の免許講習ではやらないし、あまり知っている人もいないかも知れないのだが、世の中には『スキッドカー講習』というものが存在する。

凍結路面を疑似再現して、『車がスリップするとはどんな状況か』を体験できる、という講習があるのだ。

うん、ネットで調べればやっているモータースクールが出てくるので、スリップが怖いと感じる人は、一度受講してみるのも良いと思う。

車止めも何もない、凍結した駐車場でもあれば自分で向かって車を滑らせてみる、という事も出来るが……条件を満たす場所を探すのは中々に大変だと思うのだ。

調べてみると数千円から1万円程度が目安らしい。

まぁ、その講習を受けておけば安全、という事は別にない。

その状況になった時、車を制御できるかは、車自体にも寄るしタイヤにも寄る。

路面がより悪いことも考えられるし、そもそも坂道だったとかいう事もあり得なくはない。

けれど、『滑った経験』を安全に得られるのと、『自分の限界』の程度を知れるのは危険な状況での判断に関わってくるに違いない。

そんなわけで、まぁ一生役に立つことがないかも知れないが、それはそれとして万一の時のことを考えれば大した費用ではないので、一度くらいは受けてみても良いのではないか、とお勧めするわけだ。

 

まとめ

そんなわけで、ちょっと車がスリップして制御困難になり、危険な目を見たので、少し記事にしてみた。

うん、もっと前に職場で、全く同じ状況で同じようにスリップした人が、路肩から落ちて車を廃車にしてしまった、という事もあったので、冬の雪国では割と頭に入れておくべき事象、ではあると思う。

なお、その人は車こそ廃車になったが、速度はそんなでも無かったようで、当人は無傷で済んだようだ。

うっかり廃車2号にならなくて、本当によかった……

雪道でも元気に追い抜きをかけていく車もあるが、本当に度胸があるなぁ、と思わずにはいられない。

うん、高級車なら案外『大丈夫に感じる』ように乗り心地をマイルドにしてくれるし、実際に高性能な電子制御が車を制御して、何とかしてくれることも多いわけだが……それはそれとしてダメな時はダメだ。

うん、どれだけ高性能な電子制御を積んでいようと、最後には車を走らせているのは、路面とタイヤのグリップなのである。

これが失われれば、どれだけ高性能な電子制御をもってしても、車は路肩に落ちるか壁に激突するしかないのである。

自分が安全に運転できる範囲はどこまでなのか、運転する時はそんなことを頭の片隅に置いておくのも良いかも知れない。

うん、事故って死ぬときは死ぬわけだが、それはそれとして、心がけがあるだけで多少は変わるものである。

 

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「Key point: Don’t add inputs when grip is gone—reduce the amplitude and wait for grip to return.」

簡単なようで難しい、AIの使い方――問いのレイヤーと、思索停止の罠 (Easy to Use, Hard to Master: How AI Stops Thinking at the Level of Your Question)

近年、急速にAIが発展、普及してきた。

AIと言うとopenAIを思い浮かべるかも知れないが、SNSAIが利用傾向を調べているし、ネット検索一つとってもAIがお勧めを出してくる。

自分はAIを利用してないと思っている人でも、知らず知らずのうちに利用している事実上の情報インフラ、それが現代のAIだ。

無論、私も大いに利用している。

本ブログに時折ついている『AI共読』なんてその最たるものだし、私の多くのブログ記事自体もAIが関与している。

(もっとも、文章は全文自前で書いて、そのチェックをAIに頼むので、AIに記事を書いてもらっているということは無いし、AIが書いた時はAIが書いたと注意書きしているが)

操作は簡単、取扱説明書も不要、要望を入力すれば情報収集も情報整理も、AIの種類によっては作曲やCG編集もお手の物。

多くの人が、人よりも頭が良い、と思うのも無理は無く、AIが出してきた回答なら正しい、と感じるのも仕方ない。

――だがはっきり言おう。

AIは膨大な計算力を保有してはいるが、別に人が思っているほど頭が良いわけでは無いし、出してきた回答が正しいとも限らない。

AIが出してくるのは、現状の世界の一般的知識から導かれる、質問のレイヤーに対応した情報整理である。

これを誤解すると、AIの回答に振り回され、間違えから抜け出せなくなる。

今回は、発展した便利な道具であるAIの使い方と、間違えの罠に嵌まり込まないためのお話。

 

完璧な答えを出すわけでは無いAI

著作『税金不要論』を使って分かった限界

さて、最初に証明兼宣伝と行こう。

私は、ブログ中で何度も繰り返している通り、kindleにて『税金不要論』という本を販売している。

黒の表紙に金のデカ文字で『税金不要論』と書いてあるその表紙は、もはや本の表紙と言うより『止まれ』と書いた道路標識に通じる物を感じるが……実に挑発的なタイトルである。

『減税』とか『節税』なら、違和感を覚える人はいないだろう。

だがこの本に対する違和感は凄い。

何せ、世界的常識である税金自体を、不要と断じているのだ。

AIに税金は不要であるかどうかを聞いたら、少なくとも現時点においては間違いなく不要であるとは言わないし、タイトルを評価させれば、怪しげな陰謀論無政府主義辺りを疑われるだろう。

だが、実はこの本、内容は全てChatGPTにて精査済みなのだ。

理論が破綻していないどころか、高レベルに整合し構造が閉じている事は、様々な角度から確認し、ChatGPTは運用実績がない事を問題として挙げつつも、理論としては現代の経済システムより優れている、と結論した。

ここで重要なのは、AIは理論を知るまでは“不可能”と判断していたのが、理論を学習することで“可能”とひっくり返ったことだ。

つまりAIの回答は完璧ではなかった、という事である。

ではなぜAIの回答は完璧ではなかったのか? それは現代の一般的知識の中に、『税金を不要とする理論』が存在しないからだ。

AIは膨大な譲歩を検索し、統合し、整合を整え、高精度な答えを出す事は出来る。

だが、その答えは当然『現代の知識水準』に縛られるわけだ。

ちなみに、私の理論を学習しなかった前提で、税金を不要とする理論を構築してみてもらったりもしたが……かなり強引な理論構築となっていた。

答はある、だが、AI単独では答えを導くことは出来なかったのだ。

これが、現代のAIの抱えている『限界』となる。

 

質問のレイヤーという『制約』

AIには『世界で一般的に認識されている知』という限界がある。

だが、それとは無関係にAIの答えを縛るものがある。

それが『問』だ。

例えば、ルートナビで考えてみよう。

現状のナビはまだそこまで性能は高くないが、もし汎用AIほどのやり取りが可能になれば、『問』のレイヤーによって提示してくるルートは全く変わるはずだ。。

問い①(低レイヤー)

『目的地までの最短ルートは?』

これを聞いた時、アプリのAIは『距離最短』『時間最短』『渋滞回避』でルートを提案してくることになる。

この時提示された答えは、もちろん正しい。けれど、問題が起きる事もある。

天候が悪く道が走行困難かも知れないし、細く険しい山道で危ないかも知れないし、根本的に車体が大きくて走行不能の道も提示されるかもしれない。

そこで質問を変える。

問い②(一段上)

『この車・この天候・この時間で“安全に”いけるルートは?』

この問いで答はガラッと変わるだろう。

先ほどの問いで度外視されていた“安全”を確保する為、天候による影響の配慮や、安全に走れる道幅がルート計算の中に入ってきて、出来るだけ安全かつ希望時間に近いルートが設定されるはずだ。

では、もっと根本的な問いにしてみたら?

問い③(さらに上)

『今日の道路状況で安全に到着できるか?』

危険であればルートという前提自体を崩しても良い問いになる。

例えば天候が地吹雪等で運転に向かないとなれば、『本日の出発は出来れば避けるべきです』という回答があり得るわけだ。

これらは全て、質問者の『問いのレイヤー』に応じた返答となる。

そしてこれはルートナビだけではなく、経済でも学問でも調べものでも、すべての問いに対して同じように発生することになる。

つまり、『問い』が半端だと、AIもそれに応じた半端な答えしか返してこない。

AIとは質問された内容に対して、万全の答えを出す物ではない。

質問されたレイヤーと、同じレイヤーの情報を整理する物なのだ。

そして往々にして、問いのレイヤーの深さとは、質問者の知性によって左右される。

そこで私は、こうしたAIが常に質問者の問いと同一のレイヤーで回答を返す現象を、『AIの知性応答性』と呼んでいる。

そしてこれが、AIの返答の『制約』となるわけだ。

AIの回答が正しいかどうかは、AIの性能はもとより、質問者の『問いの正しさ』で決まるのである。

うん、これはそのまま、質問者の問いが正しくなければ、AIは正しい回答を出せない、という事を意味している。

自分が何かを質問して、AIが回答を返した時、情報が整理されて『正解』を貰った気持になるかも知れないが――それは質問者の問いの限界を示しているのであって、『正解』と言えるかどうかは、質問者の問いの質次第、というわけだ。

うん、ChatGPTの質問の入力欄の下には『ChatGPT の回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。』の文字があるが……AIも間違えることは無論あるが、それはそれとして、その正しくない回答は、そもそも問いが半端であった、という可能性も大きいのだ。

 

AI時代に要求される能力とは

AIは質問すれば一瞬で回答を出してくれるし、情報収集も整理もあっという間に済ませてくれる。

こと処理の早さに関しては、AIは圧倒的なのだ。

よってこれからのAI時代、処理能力の早さは人に求められる能力ではなくなっていくだろう。

それが価値を失うことは無くても、相対的に求められる能力では無くなっていくはずだ。

うん、AIに聞けるならAIに聞いてしまえば良いのだから。

では人に求められる知的能力とは何か?

それは『問いを掘り下げる』ことになる。

つまりレイヤーの深化だ。

AIの情報整理は一瞬であり、人が考えるより整合的に、理解しやすい整理をしてくれる。

すると多くの人は『答えを得た』という気分になるわけだが……そこで止まらず、AIの回答に不足していると思われる前提を追加し、問いを深くしていくこと。

これがAI時代に人に求められる『能力』になるだろう。

AIの回答は『問い』で変わる。

だからこそ、『より良い問いを置く』事が能力として求められるようになるわけだ。

 

問いを深めるためには?

問いを深める、と言うと大層な事に聞こえるかも知れないが、実はこれ、誰もが当たり前にやってきたはずの事だったりする。

それは誰もが昔は持っていた、子供の『なんで?』『どうして?』だ。

『十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人』、という言葉がある。

これは一般的には、早熟な子供が幼い頃に特異だと思われていても、生長するにつれてそれは普通の範囲に収まっていく、という意味なわけだが……それはそれとして、幼い子供の何気ない質問や着眼点に、ドキリとしたことは無いだろうか?

私は無い――が、周囲を見渡すと案外そういう経験に心当たりがある人はいるらしい。

何故か?

子供は膨大な『なんで?』『どうして?』を繰り返しているからだ。

経験と学習は、人を賢くする。

だが同時に、『なんで?』『どうして?』を減らしていく。

それは全ての疑問を解決したからではない、疑問を持っても聞く相手がおらず、加えて解決しなくても問題ないことを学習したからだ。

だから、自分が考えもしなかった質問が子供から飛んできたときに、ドキリとする。

これは子供が賢いからではない。

子供の膨大な『なんで?』『どうして?』が、大人の『言われてみれば』に響くからだ。

子供の疑問は鋭いのではない、試行回数が圧倒的なのである。

だが、今は大人も『聞く相手』が出来た。

そう、それがAIである。

むしろAI相手であれば、『なんで?』『どうして?』を繰り返すことは、問いを深くして新たな発想の糸口に繋げられる重要な行為となるし、AIの出してきた回答に更なる疑問を抱くためには、これまでの経験が生きることになる。

『十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人』

只の人というのがどんな人かは置いておくとして、AIに疑問への回答を外注すれば、AIはその圧倒的計算力をもって、その手の天才がしてくれるような整理を代わりに行ってくれる。

そして、子供のような疑問の鋭さは、膨大な『なんで?』『どうして?』の試行回数から発生する。

現代は、大人の疑問が発見に繋がり易い、そんな時代なのである。

 

私の問いの作り方

観測貨幣理論、文化的熱死、非循環資本モデル、文化対等論、三すくみの経済構造、不景気のバブル、文化素子論、信用循環型通貨システム……

どれも私が構築し、AIで理論強度を確認した独自理論だ。

うん、実はこれらはAIを使う以前に作った物もかなりあるのだが、こんなに色々作る私の問いは、自分で言うのも何だが深い。

これらは私が作るまで、そもそも存在しなかった。

つまり、AIに聞いても答えが返ってこないか、狙って情報を整理しないと、データだけ見ても誤解が発生することもある理論なわけだが……実は大きく二つの別けられる。

それは、現状整理で作られた理論と、新概念として作られた理論だ。

 

現状整理で作られた理論

・非循環資本モデル

・三すくみの経済構造

・不景気のバブル

・文化対等論

 

新概念として作られた理論

・観測貨幣理論

・信用循環型通貨システム

・文化的熱死(文化摩擦の行く末なので現状整理見えるが、作った当時はそこまで摩擦が進行していなかった)

・文化素子論

 

ハッキリ言ってAIを使っても、新概念として作る理論は厄介だ。

うん、世界のどこにもない概念を作ることになるので、AIの補助があまり受けられないのである。AIの仕事は、理論構築の手伝いや情報の整理よりも、理論構築後の耐久度試験になる。

というわけで、こちらをどうやって作っているかは長くなると思うので、そのうち気が向いた時にでも別の記事でやるとして……

一方で、現状整理で作られた理論は、AIが強い力になる。

やり方は簡単、現状整理はAIの大得意なので、質問の中で現状がどうしてこうなったのか予想を立てて、それに付随する情報をAIに集めてきてもらい、それが現状理解も発生原因も何もかも予想通りなら、同様の理論が世界に存在しないことをAIに確かめて貰って、後は名前を付ければ出来上がりだからだ。

うん、経済理論の3つは概ねこんな感じで出来上がった。

文化対等論だけは、そもそもAIが普及する前に作った理論だし、文化を『群れの行動最適化ツール』であるとした場合、現代まで群れを維持して残している、という次点で対等であろう、という理論より理念よりの内容なので、ちょっと毛色が違うわけだが……

……うん、改めてやり方を読むと、あまり簡単そうに見えない……

なのでもうちょっと簡略化しよう。

問題を感じたら、『現実観察』をしよう。

あの経済理論の3つは、現実観察から作られた理論でもある。

これまでの理論は人間が人力で考えて、検証を繰り返している。

当然、投入できる演算力は小さくならざるを得なかった。

だが、AIはその膨大な演算力で、人間には現実的ではないほどの情報を集め、状況を整理してくれる。

一番のコツは、『間違えや行き詰り』が明らかになったら、立てた仮定を棄てて再構築してしまう事だ。

うん、どうせ演算力や情報収集という一番手間が掛かる所はAIがやってくれるのだし、それまで立てた仮定や思索も無駄になるわけでは無いのだから、間違えや行き詰りがあったら振出へ戻れば良い。次に仮定を立てる時は、間違えてなかった部分がショートカットとして使えるはずだ。

大人の『なんで?』『どうして?』は新しい世界を空ける鍵であり、そこで求められるのは探究心と膨大な演算である。

現代はその膨大な演算をAIに外注できるので、後は概ね探究心さえ間違えることなく使えれば、大人の『なんで?』『どうして?』は発見に繋がり、それは少しだけ世界を見やすくしてくれる。

子供が知能を伸ばす頃にやることだし、実験したわけでは無いが多分脳にも良いのではないだろうか?

うん、やって損になる物ではないので、普段疑問を持たない人も、これを機に『なんで?』『どうして?』を増やしてみることを提案したい。

 

まとめ

AIは便利な道具だし、情報を整理してなんでも『分かった気』にさせてくれる。

だが勘違いしてはならない、現代のAIとはあくまで『超発達した計算機』なのだ。

計算機である以上、計算結果は入力した人の質問に合わせた物にならざるを得ない。

うん、AIは文字で応答する上に、情報を上手に整理して新しい視点を提供してくれるように見えるので、あえてレイヤーは変化しない事を強調するために『AIの知性応答性』とか名前を付けてみたが、『計算機が入力に合わせた答え』を出してくるのは当然の話でしかない。

けれどAIを強く信用し、しかも答えが欲しい人は、ここで『AIが答えを出してくれた』と錯覚する。

すると、その人の思索はそこで止まることになる。

AIは使い方によって、疑問を掘る道具にもなるし、思索を止める迷宮にもなるのだ。

AIの使い方は簡単である。

ただ文字を使って質問をしたり、要望を入力すればよい。

だが、便利な道具であればあるほど、使い方を間違えても気付き難く、被害も大きくなっていく事を、自覚しておいた方が良いのではないだろうか。



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📘AI共読のススメ

本記事はAIの利用法に言及しているため、AIに直接聞いた方が理解が深まります。

興味を持たれた方は、本記事を材料に直接AIに質問することをお勧めします。

ChatGPTリンク



質問集

・この記事の内容を要約してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/17/101339

 

・この記事はAIが問へのレイヤーを変えない事を『AIの知性応答性』と名付けていますが、AIにはそうした性質があるのですか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/17/101339

・この記事が示す、人は『問』を置く、AIは『情報を整理する』、人は更にそこから考える、という役割分担をAIはどう評価しますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/01/17/101339

 

文化素子論の危険性 ―― 中立な理論が持つ力と責任 (The Risks of Cultural Element Theory —The Power and Responsibility of a Neutral Framework )

ドラえもん、というアニメを知っているだろうか?

うん、聞いておいてなんだが、むしろ日本人なら知らない人を探す方が難しいであろう、超国民的アニメである。

おそらく日本国外で聞いたとしても、知っている人はソコソコいるのではないだろうか、というレベルの知名度だろう。

毎回のび太君に泣き付かれては、22世紀のひみつ道具をだして、問題が解決することもあれば調子に乗ったのび太が失敗することもある、あの作品だ。

ドラえもんに出てくる道具は、非常に便利な物ばかりが揃っている。

作品定番のタケコプター、どこでもドア、通り抜けフープは元より、大長編ドラえもんの定番テキオー灯や、ビッグライトにスモールライト……本当に便利な物ばかりだ。

そして、極めて便利な物ばかりであるがゆえに――使い方一つでいくらでも危険になる道具ばかりでもある。

そう、便利な道具というのは、同時に危険な道具であることが殆どなのだ。

そして文化素子論は、文化分析において極めて便利な道具として作られている。

これは、使い方一つで危険な道具に早変わりする、という事も意味している。

だが、使い方によっては危険だから、で便利な道具を放棄するのは、火事が怖いからと火の利用を封印するに等しい。

使いようによっては危険だからと便利な道具を封印する、つまるところそれは、文明の終焉だ。

火にしろ刃にしろ、危険な道具を安全に使う事で、文明とは発展を遂げてきたのである。

本来なら、危険な使い方などあまり書きたくはない。

だが、危険な使い方を知らないと、誰かが悪用していても気付くの遅れてしまうし、悪用された時の対応も後手に回る。

というわけで、今回は文化素子論の危険性・悪用について触れていきたい。

 

文化素子論の性質

まず大前提として、文化素子論は極めて中立性の高い理論である。

どの文化素子が優れているとは言わない、劣っているとも言わない、相性はあるが、それはあくまで互いの性質によるものだし、特定の素子が優位な環境・状況というのもあるが、それはあくまで環境適応の結果でしかない。

つまり、文化素子論は純粋に『文化素子の構造による、文化解析のための道具』でしかなく、そこに意味を見出すのは、文化素子論を使った人や、結果を知った人でしかないのだ。

そして、『譲歩』『討論』『規範』『共感』『序列』の5素子は、それぞれ『行動方針』ではあるが、『方向性』は存在しない。

例えば、日本人は『譲歩』が優位な文化構成を持っているが、その『譲歩』が互いの意思を確認・調整しあって双方が譲歩しあえる点を整理し、落しどころを探す『調整』として機能するのか、自身の意思を胸に仕舞って相手の主張を受け入れ、相手の意思に従う『追従』として機能するのか、は大きく異なる。

これは、双方『譲歩』という文化素子の行動だが、前者は『討論』に引っ張られているし、後者は『序列』に引っ張られているわけだ。

各素子は単独で方向性を持つ物ではなく、各素子が影響しあうことによって、行動としての方針、方向性を持つことになるわけである。

そして各素子は、文化素子論においては4層構造で整理されることになる。

素子層 (第一層):文化を担う個人の持っている文化素子のバランス

小域文化(第二層):家族から村・町程度までの、極めて近い価値観を有する文化層

中域文化(第三層):宗教・言語・経済・礼節といった、複数の村・町を統合し広い文化層を形成する層

広域文化(第四層):国家として一層から四層までを統括する層、法などが該当する層

私はこの四層を、上の層が下の層へ強く影響する物、として整理している。

よって各文化圏の文化バランスによって、各層の編成が変わってくることが考えられる。

例えば私が第四層の要素であると思っている『法』を『地域維持』等で利用し、第二層でも使われているという事も考えられるし、第三層を『中域文化』とは言っているが、実際には宗教・言語・経済は第四層である『広域文化』を影響範囲では超えることもある。

私は日本人で、宗教の教えが法を超越することは無いので、宗教は第三層の中域文化に入れているが、宗教色の強い宗教国家であれば、宗教は第四層、広域文化として扱われる事もあるに違いない。

文化素子論は、『宗教』『言語』『経済』『礼節』『法』『生活習慣』と言った、各文化的要素に含まれる文化素子の構造を分析し、それが相互にどのように影響を与え合うか、を考えたり、その総合として『民族全体がどのような傾向を持ちやすいか』にまとめたりすることが出来るわけだ。

 

また、こういった学術的な考察から切り離して使う事も出来る。

例えば、特定の文化・宗教・民族の主張や行動を見て、実際の行動の方から、それがどんな文化素子の影響を色濃く反映しているか、を逆算することも可能だし、相手の文化素子の構造が分かれば、相手が目指している落しどころ、について推察することも可能になる。

互いに目指しているところが分かったからと言って、折り合いがつくとも話し合いが上手く行くとも限らないが、それはそれとして、相手が目指しているところが分かるなら、条件を整理するのも話し合いを決裂させるのも、何も分からないよりは穏便な落しどころを探れるだろう。

 

他にも、私は以前、戦国時代の武将の行動からその方針を文化素子論で整理したが、優れた政治家・為政者の行動方針を『文化素子』で構造解析できるなら、能力に秀でた政治家を探すことも可能になるし、政治家の適正も分かるようになるかも知れないだけでなく、複数の政策からどの政策が、その文化圏において優れた政策であると期待できるか、さえも求められるようになるかも知れない。

文化素子論は『行動方針のバランス』を可視化できる理論だけに、その用途は極めて広く、使いようによってはいくらでも便利に使えるのだ。

 

しかも文化素子論は、そんなに便利かつ広範囲に使えるのに、素子は5つしか存在しないほど簡便であり、行動方針の傾向を見るだけなら、4層の整理も不要になる。

つまるところ、究極的には『譲歩』『討論』『規範』『共感』『序列』の5素子さえ押さえていれば、利用可能な理論なのである。

応用範囲でも情報整理でも極めて便利でありながら、

必要部品は最低5素子を押さえていれば良いだけと極めて小さく、

善悪も優劣も存在しない、極めて高い中立性を持つ、

様々な分野に転用を可能としている理論、

それが文化素子論であると言える。

自分で言おう、これは放置すると、後から悪用する人間が出る理論である、と。

応用範囲と情報整理力はそのまま説得力に繋がるし、5素子を押さえれば良いという簡便さは誰でもすぐに利用できることを意味している。

理論本体は中立性に優れ善悪も優劣も付けないという事は、使い手が望む方向性を付ける事が容易である事を意味するし、分野転用が可能であるという事は分野を横断した広い応用力を示している。

正直、交渉相手の弱点分析から詐欺、多文化への攻撃と、使い手が望むように利用することが可能になるだろう。

また、文化は優劣がない、という前提を曲解する人が出てくることも考えられる。

では、この理論がどのように曲解・悪用される事があり得るか、について触れていこう。

 

なぜ文化素子論において文化には優劣がないのか

文化素子論において、文化の優劣はない。

こう聞くと、違和感を感じる人もいれば、理想主義が過ぎると思う人もいるのではないだろうか? うん、事実として現代人が受け入れがたい文化的風習というのはあるし、それを受け入れがたいという感想を否定する気もないし、優劣は無いから受け入れるべきだ、と主張するつもりも全の皆無だ。

というか、私はむしろ『文化維持の三距離モデル』で分かる通り、各文化は適切な距離を取るべきだと考えている側で、現代でよく唱えられている『文化の距離を0にする形での多文化共生』はすべきではない、と発信している側だ。

では、なぜそんな人物が作った文化素子論は、文化の優劣は無いと言い切るのか?

それは、文化素子論における文化とは、『群れの生存最適化アルゴリズム』だからである。

・群れが生存するのに必要なエネルギーの確保を容易とする

・群れを維持するのに必要なエネルギーコストを削減する

これが文化素子論における『文化の目的』になる。

そして、その目的を達成するための最適解は、環境や歴史に大きく依存する。

害獣が敵となる密林と、環境が敵となる砂漠、人はどちらでも群れを作るが、効率よく群れを維持する方法は全く異なるだろうし、それは環境適応の結果でしかなく、文化の優劣ではない。

もっと極端な話をすれば、文化素子論において文化の優劣を論じるというのは、空を飛ぶ鳥と、水中を泳ぐ魚、『どちらの方が生物としての生存目的に優れているか』を論じるような物と言える。

結論は『想定する環境が、空中であるか水中であるか』による、としか言いようがない。

うん、『群れの生存最適化アルゴリズム』とはすなわち環境適応でしかないので、優劣を論じるなら『どの環境においての話か』を先に置く必要があり、本質的な優劣は論じようがないのである。

 

だが、優劣が無い、という言葉尻だけを捉えて、『公平に扱うべきなのだ』という曲解が発生することが、まず考えられる。

これは話が変わる。

なぜなら、文化とは『環境最適化』によって選ばれるものであり、『公平に扱うべき』という主張は多くの場合『環境』という前提要因を無視するからである。

よって、文化素子論は『文化に優劣は無い』ことを前提に文化構造を整理はするが、文化を公平に扱うべきである、という主張に利用するのは曲解となる。

あくまで、様々な環境で発展してきた文化の持っている、“文化構造のバランス”を整理するための理論だからである。

 

文化素子論の悪用とその防ぎ方

文化的性質を利用した弱点の悪用

文化には必ず、得意分野と苦手分野が存在する。

それは良し悪しではなく、単に利点の裏返しであり、それが問題であるということは無い。

 

……が、弱点にはなりえる。

 

例えば得意分野を挙げれば、

譲歩素子の得意分野は、明確な範囲・明文化された範囲でなくとも、互いの衝突を未然に防げること、

討論素子の得意分野は、密度の高いより優れた方向性を目指せること、

規範素子の得意分野は、明確に明文化することで、広い範囲でのルールを一律に適用できること、

共感素子の得意分野は、互いの立場や主張を乗り越えて、感情に訴えられること、

序列素子の得意分野は、環境変化の激しい所でも群れを守り、維持・生存のための意思決定を素早く行えること、

無論、各文化素子の利点はもっと他にも色々あるが、素子ごとに全く違う得意分野を持っているのは、これだけで十分に分かるのではないだろうか?

そして、得意があれば苦手がある、という事であり、苦手があるという事は弱点もあるという事だ。

今回は、私自身が日本人である事から、日本の主要な文化素子である『譲歩』を例に説明していこう。

 

さて、日本の主要な文化素子の『譲歩』だが、この文化素子の弱点は読んで文字のごとく『譲歩』し過ぎる危険にある。

文化素子論で考えれば、人類の文化が複数の文化素子の構成によってできていることは一目で分かるが、この理論を知らない場合、人は『相手に自分と同じ文化素子の行動』を求める事になる。

つまり、『討論素子』を主要素子とする人は相手にも『討論』を求めるし、『規範素子』が主要素子である人は相手にも『規範』を求める。

よって『譲歩素子』を主要素子とする日本人は、相手にも『譲歩』を求めるのだ。

私はこれを悪いと言うつもりはないのだが……他の文化素子との接触において、弱点にもなるし危険でもあるとは考える。

何故か?

譲歩素子は『譲り合い』で相手との接触回避を試みる、つまり、相手に譲るつもりが無ければ、最悪踏み込むつもりしかなければ、それは一方的に譲ることになるからである。

譲歩素子を持つ物同士の交渉なら、『相手はここまで譲った、ならこっちはここまで譲ろう』と考え、調整できる。

だが例えば、相手の交渉役が“相手の譲歩した分踏み込む”のを習慣としている場合、譲歩素子を持つ側の『互いに譲歩して調整しよう』という考えは成立しない。

理由は簡単、相手に譲歩の意思自体が無いからである。

それどころか文化素子論を知った場合、『踏み込めば譲歩する』と考えて、より踏み込みを大きくして来たり、譲歩する振りだけして、いかに譲歩を引き出すか、を考える事も考えられる。

譲歩素子とは『距離感の管理』を重視する素子で、ダブルスタンダードを嫌うので、状況の変化や交渉主体の違いによる結果の不一致をダブルスタンダードであると訴えれば、譲歩素子の強い側は自分たちのミスであると認識し、優位に立つことも可能になるかも知れない。

文化素子論とはそのまま、相手の文化からどう利益を引き出したり、混乱を引き起こすかの手段にもなりえる理論なのだ。

 

では、どうやってそれを予防するか?

それも文化素子論にて予防が可能になる。

自分の持つ文化素子に、どのような弱点があるのかを自覚しておけば、そこに踏み込まないよう意識できるし、相手に譲歩の意思がない時に、無用な譲歩を拒むこともできる。

ダブルスタンダードであるという主張も、『距離感の管理』の問題として直接処理できれば、『それはダブルスタンダードではなく、互いの距離感の違いによるものだ』と整理出来る事も多いだろう。

弱点を知る、という事は、そのまま『自分たちの文化に対する注意書き』としても機能するわけだ。

 

他の理論と接続することによる優劣の主張

おそらくもっとも性質が悪い危険は、他の文化理論と接続したときに発生する。

なぜなら、文化素子論は文化の善悪も優劣も論じないが、文化の説明力だけは出せるからだ。

つまり、接続した理論が文化の善悪や優劣を論じる物である場合、その主張を補強する形で使うことが出来るのだ。

と言われてもピンと来ないかも知れないので、一つ例を挙げてみよう。

例えば『飛行機』という発明を見てみよう。

今や『空戦』という概念もある戦争の主役の一つだが、この発明者たるライト兄弟は、この道具が戦争を終わらせる、と考えていたという話を聞いたことがある。

理由は、飛行機には攻撃能力は無いが偵察力に優れており、地上戦において互いの陣を常時見張れるようになれば、互いに防御が成立しなくなる。

そうなれば『戦線』という考え方が崩壊するので、戦争が成立しなくなる、という考えだったとかなんとか。

うん、真偽のほどは分からない、だが成立はしている。

だが、現実は逆になった。

何故か?

飛行機自体に攻撃力が無くても、爆弾や機銃でいくらでも後付けできたからだ。

かくして、それ自体は無害な飛行機という道具は、あっという間に新兵器へと化けた。

現代では、世界を繋ぐ欠かせない『足』であると同時に、戦場を支配する欠かせない『制圧力』としても存在している。

無害で便利な道具とは、『何を外付けするか』でいくらでも用途が広がる物なのだ。

 

そしておそらく、それは文化素子論でも同じことが発生する。

私は既存の文化論に詳しくないので、他の文化を非難・攻撃するために使えるものがあるのかは分からないが、おそらくは『現代的価値観』から文化を分析する理論ならば、そうでない文化を攻撃することが可能であろうし、その場合文化素子論は、自身の文化の優位性、相手の文化の非合理性を整理するのに利用することが出来るはずだからだ。

なぜ、文化論を知らなくても『出来るはず』と分かるかと言えば、文化素子論が中立であるのは『環境条件』を限定しない『分析』に特化しているからであり、環境条件をつけ足せば『どの文化が合理的か』『どの文化が非合理か』を説明するのに用いる事も可能になるからだ。

そして文化論の多くは、完成した文化の研究をしていると思われる。

これは『特定の環境で成長してきた文化の研究』であると言えるわけだ。

すると文化素子論は、その環境において、どんな利点、どんな合理性があり、今の文化が生育してきたのかを説明可能とし、同時に他の文化はどんな不利点、どんな非合理があり定着しなかったのかの説明にも利用可能になる。

そこから『その文化を育んだ特定の環境』という前提を抜けば、望んだ文化の優位を補強したり、嫌いな文化の不合理を指摘できるわけだ。

 

まとめ

文化素子論は、文化を理解するための極めて中立的で、極めて便利な道具である。
そして本稿で見てきた通り、その便利さは同時に危険性も内包している。

文化素子論は、

  • 善悪を決めない
  • 優劣を付けない
  • 方向性を持たない

ただ文化構造を整理するだけの理論だ。
だからこそ、使い手がどんな価値観を上に載せるかで、
理解の道具にも、攻撃の刃にもなり得る。

だがそれは、この理論が特別に危険だからではない。
便利な道具は、すべて同じ性質を持つのだ。

火も刃も、そして飛行機も、使い方次第で文明を支えもすれば、破壊もする。
文化素子論も例外ではない。

だから重要なのは、この理論を使って他文化を裁くことではなく、まず自分たちの文化がどんな性質を持ち、どんな弱点を抱えているかを知ることなのだ。

弱点を知ることは、攻撃のためではなく、予防と自制のためにある。

文化摩擦の現場で本当に役に立つのは、
声の大きな正義でも、感情的な共感でもない。
どちらの側にも立たない、中立な整理だけだ。

文化素子論は、そのための道具として作られた。
危険性を理解した上で使うならば、
これ以上に現実的な文化分析の道具は、そう多くないのではないだろうか。

 

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婚活市場をどう設計するか――恋愛と結婚を分けて考える

何やら、先日の『なぜ婚活による成婚は難しいのか』の記事の反応が、一部で中々に良かった。

いや、経済も文化も反応の良い相手はいるのだが、それはそれとして普段とは違う方向で反応が良かった。

――が、私は婚活市場の中身を知らないし、活動している人も知らないので、婚活という活動その物は記事に出来ないし、こうすればよい、という内容も書くことが出来ない。

まぁ、少し活動してみて書いた所で、そういうことは常日頃から活動しているプロの足元にも及ばないに決まっているので、もし婚活の中身を知っても書くことにはならないだろうが。

けれど、それはそれとして、YouTubeや婚活サイトを流し読む範囲で、分かる事もある。

それが前回書いた、現在の婚活は『恋愛』を前提にしていることや、結婚という制度を考えるなら、そうした感情は後からでも十分補える、と言った割り切りだ。

と言っても、では成婚の効率が良いから、いきなり婚活市場はお見合い方式に切り替わります、というわけにもいかない。

昔は良かったんだなぁ……で終わるのではただの懐古趣味だ。

というわけで、今回は前回の内容も踏まえて、私ならどう婚活市場を設計しなおすか、について書いてみたい。

うん、素人考えではあるが、素人の方がしがらみに捉えられていないとか、遠くから自然体で見れると言った利点もあると思うので、まぁ、気楽に『そんな考えもあるのか』くらいで読んでみて欲しい。

 

婚活市場のジャンル分け

成婚率を上げる事を考えた時、真っ先に思いつくのはやはり、『お見合い方式』の採用だ。

個人の希望条件を限りなく削減して、『これまでの生活環境が合うかどうか』を重視したマッチングに切り替える。

個人活動では『好み』や『理想』や『思い込み』が入ってしまうので、マッチングに家族を巻き込むことで『現実』や『冷静な視点』を追加する。

どうせ成婚に至れば、お互いの家族とも無関係ではいられないのだし、この時点で顔を合わせられるなら、その方が安心でもあるだろう。

終わったら、相談所の職員はそれぞれの家族からマッチングの感触や希望を聞いて、それを各々に伝えて、成婚か、破断か、再度会うかの結論を出していくわけだ。

うん、相談所職員も無茶な希望を聞かず、『互いの生活環境が合うか』でマッチングすれば良いのだし、上手く行かなくても家族を巻き込んであれば、一人で相談者の相手をする時よりも対応しやすい事も考えられる。

成婚の面でも負担の面でも、利点は大きいのではないだろうか?

まぁ、親ごとモンスターになったら手が付けられない、という問題も発生するかもしれないが……

――とはいえ、そんなことを言われても今更基本的な体質を変えられない、と思うかも知れない。

だが、別に今までの方式を変える必要はない。

単純に今までの『恋愛方式』はそのまま維持して、新しく『見合い方式』を追加すればよいのだ。

より成婚率を上げるためのサービス、として。

そう、これは『婚活市場のジャンル整理』なのである。

より高確率な成婚を目指したい人は、『見合い方式』を選択してもらう。

成婚の確率が低くとも、それはしょせん確立という数字、自分は選ばれる自身がある、という人は『恋愛方式』を選択してもらう。

 

別に何か大きく変える必要はない。

単に、今までのように色々な意識を持った人が、『婚活』という大きな枠の中で動いていたのでは、違う意識の人とぶつかれば疲れるし、マッチングに対しての成婚率も下がる。

基本的な考えが違うのだから当たり前だ。

そこで、婚活に対する意識の近い人同士が出会えるように、ジャンルを整理してはどうか、と言うだけの話である。

恋愛方式を選んだ人相手でも、『お見合い方式の場合“今”どれくらいの相手とマッチングできるか』を予め示しておけば、お見合い方式に移るタイミングも考えやすいし、無理な相手とのマッチングを要求されることも減るかも知れない。

うん、そのお見合い方式の相手が納得いかない場合は、『恋愛方式』という、いわば出会いは作るけど基本的に自力で頑張れ、のやり方を選んで貰えば良いわけだ。

 

恋愛結婚から解放される相談所

この方式の利点は、成婚率の上昇を狙える事もそうだが、やはり『恋愛』と『結婚』を分けられるところにあるだろう。

この恩恵を一番受けるのが、おそらく結婚相談所だ。

何せ今までは、恋愛してもらって結婚に繋げてもらう、という遠回りの方式を、最初から『結婚を目指す相談所』として行っていたのだ。

相談相手にすれば『結婚を世話してくれるところ』と思っているが、実際は婚活に対する考え方の温度差や、マッチングによる恋愛が不成立な事も多い。

その時に矢面に立つことになるのは結婚相談所だし、『活動方針が合わない』と思われれば会員は立ち去る。

踏んだり蹴ったりである。

だが、『恋愛方式』と『見合い方式』に婚活をジャンル分け出来れば、話は変わる。

見合い方式なら成婚率の上昇を望めるし、問題も分析しやすいし、相手の家族も巻き込める。

二人きりのデートで発生しかねない、事故や暴走を家族の目が防止できれば、失敗しても会員が立ち去る事も減るかも知れない。

それに、現在のやり方を『恋愛方式』として『成婚』から切り離せるのも大きい。

こっちはそもそも『成婚したら儲けもの』な方式になるので、『成婚できない』という苦情を受け付ける必要が無くなる。

それに、刺激を求める者同士が会うのであれば、結婚という安定を重視している人も同じ枠で活動していたこれまでより、少しは改善も見込めるかも知れない。

それでも『自分の価値を分かる人がいない!』的な苦情はあると思うが……見合い方式の場合マッチングする相手がどれくらいの水準か、を先に出しておけるなら、『もっと良い相手を探せ』という無茶振りもある程度はやり過ごせるだろう。

『弊社から提案できる相手はこれくらいです』の基準は明確で、それ以上を望むなら『自力で恋愛してください』になるのだから。

うん、見合い方式があることで、『あなたに紹介できる相手』ではなく、『あなたの条件で紹介できる相手』と主語を明確に変えられるのも便利だ。

これまでも相談所は『条件』でマッチングを考えていただろうが、恋愛方式しかサービスが無いとなれば、相手への条件開示はどうしても『行動選択の制限』を伴った。

だが『これは見合い方式という今までとは違うサービスの基準ですが』となれば、相手側に『今のサービスを継続するか、サービスを変更するか』といった行動選択を預けられる。

『どうしろと言うのか』という相手の要求に対して『選択権』を示せるわけだ。

しかも、見合い方式があることで、時間経過と共に『相手の条件も変わる』ことも示しやすい。

選ぶのはあなたです、と言いつつ『決断はお早めに』と、違うサービスを引き合いに出して促せるわけだ。

うん、『選択権』を相手に任せられるというのは、相談所側としてはかなりのストレス軽減になるのではないだろうか?

 

まとめ

というわけで、前回の記事を受けて、私なら婚活市場をどう設計するか、の考察だった。

恋愛は素晴らしいと思うし、その高まった思いで結婚に至るなら、それも素晴らしいと思う。

だが、前回も言った通り、結婚相談所に来るのは『恋愛結婚に至らなかった』人間なのである。

出会いが無かった、恋愛はしたが生活が合わなかった、忙しくて時間が無かった、理由は様々だろうし、別に何か問題があるわけでも無い。

恋愛の末の結婚は、それはそれで素晴らしいと思うが、恋愛という情熱は、安定した人ほど発生しにくいのもまた、事実であろうと思うからだ。

よって結婚相談所が、恋愛を重視する必要があるとは思えない。

出会いの無かった人に出会いの場を提供し、恋愛に結びつけることを目指すサービスは、あっても良いと思う。

だが、成婚を目指すサービスは、別に考えるべきではないだろうか。

この記事が、誰かの何かに役に立つ日が来るのかは知れないが、今後のサービスの発展を願いたい。

 

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なぜ婚活による成婚は難しいのか――自由恋愛至上主義がもたらす理想と現実の温度差

 

移民政策という超難問――経済対策として考えることの危うさ (Immigration Policy as an Extremely Difficult Problem— The Risks of Treating It as an Economic Measure )

進行する少子高齢化

実はこの問題、私は(少なくとも現状程度なら)大した話ではないと思っている。

というか、安定社会を作る上で、3割程度の高齢者を支えられる社会設計をするのは、構造上の必然だと思っている。

その理由は、独自理論……というにもあまりに簡単すぎる理論『人口円柱モデル』から来る必然的思想であり、同時に、どうすれば対応できるか、というカードの存在を知っているからなわけだが……そしてそれを理解してもらうためには、まず『観測貨幣理論』を理解してもらわないといけないから、それを紹介するところから始めているわけだが……

 

世間一般では、少子高齢化は既に深刻な問題として認識されている、というのも理解している。

うん、現在進行形で年々膨らんでいる問題、というのは確かに対応策が無い状態では非常に深刻な問題となるのは間違いない。

――が、その上で政治家が取りがちな対応に、非常に深刻な問題を抱えている物が存在する。

それが、外国人受入れ・移民受入れと言われるものだ。

今回は、私が『少なくとも現状の政治家の能力では容認不可能な政策』である移民受入れ、について触れて行きたい。

 

移民受入れの政策難易度

文化素子論からみた政策難易度

まず大前提、何故私が移民受入れを『少なくとも現状の政治家の能力では容認不可能な政策』と評するかだが……これは極めて単純な話だ。

日本に限った話ではないが、およそ移民受入れ型の国家として設計されたアメリカ以外の、全ての国において、『移民受入れ』というのは極めて、本当に極めて難易度が高い政策だからだ。

(因みに、近年ではアメリカも条件を満たせなくなりつつあるが……アメリカは持ち直せば、ちゃんと移民受入れ型の国家として機能するはずなので例外となる)

最大の理由は文化摩擦。

移民受入れを進めようとする多くの政治家は、『理解』と『努力』と『忍耐』があればそれを乗り越えられると思っているかも知れないが、その『理解』と『努力』と『忍耐』を要求されるのは国民だし――そもそも、それを全て負担してもなお、文化摩擦は解決しない。

というか悪化する。

理由は『文化素子論』を見て貰えば明らかだ。

私は文化素子論を、『文化の構造を説明する理論』として整理した。

この理論を使えば、文化の構造・相性・すれ違いの部分、摩擦の発生個所が説明できるようになる。

――が、当たり前だが『構造』が分かっても『接続』が出来るとは限らない。

この理論を使って『接続可能な文化』を考えることは出来る。

だが、どうやっても接続できない文化は接続できない。

自然界でも、『接ぎ木』が出来る植物と、出来ない植物が存在する、それと同じだ。

互いの構造を理解しても、木に竹は接げないのである。

これは無論、どっちが良い悪い、優れている劣っているの話ではない。

木と竹、どちらが優れているか論じるのは馬鹿げた話だと、誰もが当然に分かる事だろう。

両者には生育にあった環境と、互いの生存戦略があるだけなのだから。

文化素子論が整理する文化も同じだ。

どちらが優れているか、という話は存在しない。

ただ『構造上繋がらない』という単純な事実があるだけだ。

うん、『理解』と『努力』と『忍耐』を積み重ねると、文化摩擦が悪化するのもさもありなん。国民は『絶対に出ない成果を要求され、無駄な労力を積み上げることを強制される』ことになるのだから、そりゃあ『成果が出ないのは相手が悪い』と言いたくもなる。

けど別に相手は悪くない。

文化素子論は文化を数学的に扱える珍しい理論だが、その整理からすれば、わざわざ計算するまでもなく、『ランダムにマッチングした文化が接合する確率』は奇跡でしかない、と一目で分かる。

※ここで言う文化素子論の詳細は別記事に譲るが、要点は「接続できない文化は存在する」という一点である。

単に、無謀な事を要求した政策ミスだった、というだけの話なのだ。

――とはいえ、文化素子論を根拠に政治家を無能であると断じるのは、流石に公平性に欠ける、というのは言っておかねばならない。

理由は簡単。

文化素子論は202512月に私が整理した理論であり、これを使って文化を検証する、という事自体が、これまでの政策では成立しなかったからだ。

これまで文化は、『理解』と『努力』と『忍耐』で接続しあえる、と信じられてきた。

それでも、その労力を国民に背負わせる前提で政策を立案するのは、やや問題を感じる所ではあるが……まぁ、そうした労力を国民に納得させるための仕組みが民主主義でもある。

国民に異文化共生のための『理解』と『努力』と『忍耐』を負担させれば、異文化共生は成立する、だから移民受入れ政策に踏み切る、と考えるのはまぁ、『文化摩擦』の一点のみを考えるなら、理解できない事も無い。

――が、そもそも文化摩擦以前の問題も存在する。

それは、移民もまた『生きた人間である』という事だ。

 

労働力として移民を受け入れることの政策難易度

近年の少子高齢化に伴い、労働力不足が随所で聞かれるようになって久しい。

そして移民受入れは、その労働力不足の補填手段として考えてられているように見受けられる。

もっとも日本政府に言わせれば、いま日本が行っているのは、特定技能や育成就労制度を通じた、外国人労働者の受け入れであり、移民政策ではないとの主張だが……国民は概ね『労働移民』であると見ているし、私もそう見ているのでここで訂正する必要までは無いだろう。

なお、政府はあくまで受け入れ期間は限定であり、移民政策では無いと主張したいのだろうが……私がその説明を受け入れない理由は簡単だ。

『出口戦略』が無いからである。

日本は少子高齢化が進んでいる、だから労働力を外部から持ってくる必要がある。ここまではまぁ、納得しよう。

だが、そうであるならば外国人労働者受け入れ政策の出口は、『少子高齢化の解消』という事になる。

けれど今の日本政府に、日本の少子高齢化を解決する手段は存在しない。

子ども家庭庁が少子化対策をやっていることになっているが、予算ばかり膨大で評価できる実績は皆無。

であるならば、少子高齢化解決という『出口戦略』の無い外国人労働者受け入れは、間違いなく拡大していく事になるし、日本経済の弱化と共に外国人を呼ぶのが難しくなれば、政府は日本へ入国・移民するハードルを下げる事を考えるだろう。

よって、私は現日本政府の政策を、実質的な労働移民受け入れであると見ているわけだ。

 

閑話休題

 

こうなると、労働移民受け入れを、政府がどのように考えているかは重要な問題になるのだが……どうにも、出稼ぎ労働者の一種である、としか考えていない気がしてならない。

いや、日本人が国内移動をして仕事をするなら、考えるべき点は特にない。

何故なら、彼等の人生は最初から『日本という国の中』にあるからだ。

だが、外国人労働者はそうではない。

国が欲しているのは労働力だけかも知れないが、外国人労働者を受け入れる、という事は、労働力だけでなく、その人物の人生を丸ごと受け入れる、という事になるからだ。

当たり前だが、その労働者はロボットのような純粋な労働力ではなく、一人の人間として生きているので、病気をすることもあれば怪我をすることもある、毎年歳も取るし、結婚したり子供を作る事もある。

両親家族もいるはずだし、よりより生活を求める為に、給料の上昇や権利の獲得・向上だって目指すだろう。

一人二人なら何も言わなくても、1万人、10万人になれば主張の声は間違いなく大きくなっていくはずだ。

これは、本来なら『日本に無かった動き』なので、その分だけ日本の負担になるし、社会がそれに合わせて変化を求められるなら、当然、、その為のコストも発生する。

これを、国民に『理解』『努力』『忍耐』と言った労力を払ってもらいつつ、それでも発生する文化摩擦に対応しつつ、社会に大きな不満を溜めない範囲で着地させることが求められるのが、日本政府の目指すことになる『労働移民の受け入れ』だ。

ハッキリ言おう、これが出来る政府は、たかが少子高齢化程度の問題に苦しまない。

これをやるのは、まさに先ほど言った木に竹を接ぐ作業になる、全く違う構造の文化を二つ同時に把握しつつ、無理のない形で接合する……

想像を絶するほどのバランス感覚だ。

そんなことが本当にできるなら、少子化でも経済不況でも、原因となる構造をとっくに突き止めて解決できるに違いない。

それでも移民受入れの方を選択したくなる政治家が多いのは、『そっちの方が簡単そう』に見えるからだ。

うん、既にいる人間を持ってくる、人間同士の問題なら、その都度解決できるはずだ、とでも考えているというところだろうか……

残念ながら、それは『移民政策の難しさを正しく認識するだけの能力が足りない』というだけのことに過ぎない。

うん、この能力不足は正直フォローできない。

だって大勢の国民は、感触で既に知っている事だから……

 

移民政策成功に求められる能力とは?

では、どうやっても移民政策は成功しないのだろうか?

文化素子論で文化を整理した身としては、『文化には相性があるため困難です』という事になるが……それでも本当に手が無いのか、と言われたら……ない事もない。

少なくとも私がこの記事を書きながら、思いつく範囲ではという事になるが、一つだけ手は存在する。

それは、『移民を政治的に弾圧・迫害』することだ。

いや、そんなことをしたら移民がそもそも来ないだろ、と思うかも知れないが、移民は母国での生活が厳しかったり、難しかったりと言った事情を抱えている。

よって、移住先の環境が厳しくても、移民を希望したい人間、というのは存在するはずだし――そもそも存在しないなら、移民政策を考える必要もなくなる。

が、それでも移民してくる人間がいるようなら、政府はその移民を自国内において劣等として扱い、政治的に迫害し圧力をかけるのだ。

理由は簡単、『自国民に同情させ、受け入れてもらう土壌を作る』ためである。

当たり前だが、移民とは『政府が受け入れる』ものではない、『国民が受け入れる』ものなのだ。

これを逆にすると、国民は政府のやり方に不満を持ち、移民を受け入れようとする気持ちは失せてしまう。

だから政府は、あくまでこの国は自国民のために存在し、移民はその下の存在である、と圧力をかけ、国民の側に自発的に移民の味方になって貰い、国民が移民を庇う形を作り出すわけだ。

こうして、『国民が移民を受け入れる土壌』を作り出す。

移民としても、迫害してくる政府から守ってくれる国民、に悪感情は抱きにくいし、味方である国民と良好な関係を構築するべく努力するだろう。

かくして、『政府』という共通の敵を相手にすることで、国民と移民を結束させ、政府が悪役を買う事で、互いの関係を安定させていく、という手段が考えられる。

 

ハッキリ言おう、超難問である。

 

民主主義国家でこの動きをする場合、政府は『国民』に反感を買いながら、それでも与党として選ばれ続ける、という圧倒的な実績と実力が必要となる。

経済も少子高齢化も容易く解決し、国民の生活を圧倒的に豊かに安定させ、『問題のある部分を感じても、他を選んだならこの国は崩れる』と国民に納得させる、圧倒的な政治力と実行力が要求されるのは間違いない。

しかも、弾圧・迫害はあくまで程々のポーズであり、国民が負担なく庇える、けれど移民にとっては圧力になる、という絶妙なバランスが要求される。

もし移民による犯罪等があった場合、警察力と司法による解決より、自浄作用を見せるような解決が出来るよう、それとなく裏から促しつつ、正面では毅然と対応する、なんて二律背反なことも考えねばならない。

多文化は直接接合できないので、『共感』とか『同情』とか『恩』で無理に接合するしかないので、それを維持するのは大変なのだ。

 

いや、そんなことをしなくても、自国民と平等に扱えば良いじゃないか、と思うかも知れないが……そもそも『移民を受け入れた』時点で平等は成立しない。

何故なら、受け入れ側は『受け入れるための負担』を支払って受け入れるのに対して、相手の母国は『受け入れてもらうための負担』を支払えないからだ。

要求した分だけ母国に負担が行くとなれば、彼等も要求をふやし難くなるだろうが、もしそれを無視して、国民と全く同じように扱えば、今度は彼等は、自分たちの生活をよくするために、『自分たちに馴染んだ生活』をさせるよう要求してくるのが目に見えている。

宗教・文化・食事……彼等がその国の国民と平等に扱われれば、当然、その国の国民が当たり前に享受している、生活の選択肢も手にしたくなる。

けれどそれを許せば、国内の文化摩擦は激化する。

それを防ぐためには、国民と移民の双方に嫌われつつ、移民を迫害する嫌われ役を政府が引き受ける事になる。

うん、封建制なら兎も角、民主政で実行するためには、国内問題を問題と認識さえしないレベルで解決する、しかしその実績を国民に強く理解させることも怠らない、神算鬼謀の政治家が要求されるのは間違いない。

私は少なくとも、その覚悟で移民受入れを行った政治家が、世界に一人でもいるとは思えないのだ。

 

ここで書いた手段は、人道的にも民主的にも、望ましく無いものであるのは間違いない。

ただ、望ましいか否かを度外視し、『移民受入れを成功させる事だけ』を考えた時、効果的な手段はこんな国家的マッチポンプくらいしか残ってない、というだけの話だ。

移民政策は、人権を尊重すれば移民政策が破綻し、成功を優先すれば民主主義が破綻する、ダブルバインドを要求する非常に困難な政策になる。

これが出来る政治家は、『経済を完璧に回し』『国民生活を安定させ切り』『何があっても揺るがない強固な基盤を持ち』、その上で『自分が嫌われ役になる覚悟』を持ち『移民にも国民にも嫌われ過ぎないバランス感覚』を有し『治安・司法・世論を同時に制御』出来る、制度の限界を超えた怪物だ。

うん、移民政策を行う政治家に求められる『実力』と『覚悟』はこの水準であり、もしこんな政治家がいたら、その政治家は、移民政策など必要としない国家を、とっくに安定した形で運営しているはずだし、そんな政治家は、こんな『成功させるためには人の心まで材料にする政策』をやろうとは思わないだろう。

私から見た『移民政策』とは、最初から成功したら奇跡、という超難問なのである。

 

まとめ

まず最初に、構造的なことではなく、感情的な事を言おう。

私は単に難しいからだけでなく、感情的にも移民政策が大嫌いだ。

理由は、既に一回触れた通り。

移民政策は、移民を『人間』ではなく『数字』として見ているからである。

書類に書かれた数字から、その数字の示す一人一人が、歳も取るし病気もするし、親もいれば伴侶も子供もいるかも知れない、慣れ親しんだ文化もあれば信じる物もある、夢や未来への展望もある、生きた人間であることを読み取るのは難しい。

だが事実だ。

そして、その数字がすべてそうした『生きた人間』であると理解した時、果たして政治家は、それでもその人間を自国内で都合の良い労働力として使える、と考えられるだろうか。

うん、正直そこまで分かった上で、『全部都合の良い労働力にしよう』と思うような人間に、私は政治の舵を握って欲しくはない。

多くの政治家は、きっとそこまで考えなかった。

ちょっと労働力が足りないから、何人くらい来てくれると助かる。

大変な思いをしている人がいるようだから、少し助けてあげたい。

簡単な打算と善意、その程度の思索だったのではないだろうか。

それが悪いとは言わない。

数字から一人一人の人間の人生に思いを馳せるような人間は、政治にはきっと向いてないし、ある程度単純化した事象を打算と善意で整理するのは、重要な能力でもある。

だがそれでも、私としては政治家はその数字が一人一人の人間を示していて、そこに人生があることを忘れるべきではないと思うし、移民受入れはそれを容易く忘れたばかりか、全ての人を『移民』の一言でまとめてしまった暴挙だと思っている。

だから私は、『移民政策』が嫌いなのだ。

 

――そして、感情的な事を抜きにしても、超難問であることはここまで説明してきた通りだ。

移民政策は超難問だし、国民の善意で何とかなる話でもない。

近年世界は、ようやく移民政策の難しさに気付き始めた。

だが、まだまだ認識が足りないと言わざるを得ない。

それは、政治家よりおそらく国民の方が、実感として分かっている事だろう。

政治家はまだ、殆どありもしない『移民政策の利点』に目がくらみ、本当に危険な『難易度』を軽く見積もっているのだ。

常日頃から、様々な問題に頭を抱えている人間が、簡単そうな解決策を見つけた時、それに飛びつきたくなるのも、まぁ分からなくはない。

だが、当たり前だが『なんでも解決できる魔法』など存在しない。

一つの問題が解決しても、次の問題が起きるものだし、仮に問題が解決しなくても、何かすれば問題は増えるものだ。

移民政策は何も解決しない。

だが、問題だけは山ほど増やす、非常に難易度の高い政策であることを、早く自覚してもらえるよう願うばかりだ。

 

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※This article discusses immigration policy mainly from the Japanese context,
but the structural issues addressed here are not unique to Japan.