文化的熱死と文化対等論――異文化共生という理想を目指して

 

近年良く聞く言葉に、『異文化共生』というのがある。

いかにも魅力的な言葉だ。

美しく、幻想的で、多くの人が否定することの出来ない――けれど何かがおかしいと、ボンヤリと感じている人もいる、そんな概念。

様々な文化の交わる、雑多だが活力に満ちた、多様な生き方を受け入れる世界。

賛成する人は――その理想に共感する。

文化の衝突と治安の悪化、自分たちの生活が脅かされるかも知れない現実。

反対する人は――その現実に恐れ戦く。

だが、私はふと思う。

果たして、反対する人が懸念する現実、文化の衝突や治安の悪化を解決したら、賛成する人が理想とする、豊かな文化と活力に満ちた世界は、本当に実現するのだろうか――と。

これは、文化とは何か、理想的な異文化共生とはどうあるべきか、それを私なりに考察した内容になる。

 

異文化共生の掲げる理想社

『異文化共生社会』

この言葉を聞いた時、貴方は何を感じるだろうか?

理想だろうか? 平和だろうか? 平等だろうか? はたまた――人類社会の完成だろうか。

正直なところを言えば、私もその気持ちは分からないではない。

国政も、民族も、肌の色も、宗教も、言語も、全てバラバラの人達が行きかい、笑い合い、力を合わせる。

夢のような社会。

あらゆる文化の交差点、その姿に人類社会の輝かしい未来を見る人は、決して少なくないだろう。

 

けれど、ふとここで立ち止まり、冷静に思い返してみて欲しい。

『文化の交差点』とは何だろうか。

交差点とは、道の交わるところだ。

文化の交差点と言うのならば、その道の先には、各々の文化が無ければならない。

そう、つまり互いの文化が交わるためには、『互いに文化を保持している』という前提が必用なのだ。

各々が、愛すべき、誇るべき文化を持っているからこそ――

異なる土地の人と交わっても、自信の文化を失わずにいられる。

そして、互いに敬意を持つからこそ、他者の文化とも対等に交流することが出来る。

それが『文化の交差点』なのだ。

 

――だが、現代の『異文化共生』の理想は、その構造を破壊する。

なぜか?

考えるまでもない、現代の異文化共生が掲げている理想像とは、その文化の交差点の道の先、各々の文化の母体その物を、異文化共生社会にしよう、という試みだからだ。

そんなつもりは無い、そう彼等は言うかも知れない。

だが、主張しているのはそういう事だ。

どんな国、どんな地域、どんな社会であれ、他の国の文化、宗教、価値観、風習を、等しく受け入れるべきだ。

それが、客観的に見た『異文化共生』を唱える人々の主張である。

つまり現代の『異文化共生』とは、文化の均質化に他ならないのだ。

 

文化が交わるために必要なもの

私が思うに文化とは、少しずつ比重の違う、複数の水や油のようなものだ。

基本的に混ざらない、だが一か所に注がれれば、その水槽には交じり合わない無数の色の粒が、美しく絡み合う。

価値観を共有すれば、それが乳化剤のように働いて少しだけ交じり合う事もあるが、基本的にはバラバラに存在する。

けれど、交じり合う美しさは瞬間的な物で、何の刺激も与えなければ、それもやがて少しずつ分離していってしまう。

文化の交差点が美しく混ざり合うのは、母国の文化圏からそこへ飛び込んだ時、無数の知らない文化に触れあった刺激があるからだ。

その刺激に慣れれば、やがては馴染み深く安心できる、近しい文化圏の人間同士が身を寄せ合っていく事になるだろう。

美しく文化が交じり合い続けるためには、互いの文化圏からそこへ飛び込む、エネルギーのようなものが必用なのだ。

『文化の交差点』には、人の流れとしてそれが常に供給されている。

だから、文化の交差点は淀むことも、停滞することもなく、常に美しい景色を保っていられる。

けれど、現代の『異文化共生』は、この構造を致命的に破壊する。

全ての国、全ての地域、全ての社会において、あらゆる文化を混ぜ合わせて均質化したら……そこに生まれるのは、もはや文化の交差点と呼べる光景ではなくなるに違いない。

では、そんな社会を作り出したとしたら、そこでは何が起きるのだろうか。

 

文化的熱死

文化とは、同じ文化を共有する人間が、大勢集まるから成立するものが無数にある。

例えば祭り。

長い時間を掛けた準備、地域で共有してきた喜び、威勢よく盛り上げる力強さ。

これらは、同じ価値観を共有してきた者同士が集まらないと、成り立たない。

100人で出来る祭りなら、100人集まればよい――という問題ではない。

例えばその地域に300人の人間がいたとして、祭りの文化はその中の100人か共有していたとしよう。

100人だけなら、100人全員が一致団結して作業するかも知れない。

だが、全体が300人いたならば、作業する100人の意思は間違いなく希釈される。

100人だけの集団で、全員で作業していた時よりも、大きな意志力を消費するだろう。

それでも、その世代までならまだ、愛着も手伝って意思を保てるかも知れない。

だが、次の世代、更にその次の世代は――無理だ。

祭りは徐々に手軽にされ、形骸化され、やがては風化して消えていく。

他の文化も同様だろう。

世代を重ねるごとに、希釈されるように意思を失っていき、やがては消えていくはずだ。

そしてやがて、互いに当たり障りのない部分だけ残した、全員が薄っすら参加できる、意味を失った何かだけが残る。

私はこれを『文化的熱死』と呼ぶことにした。

そんな事になるとは限らない――そう思うかも知れない。

だが、そもそも多くの人は経験しているのではないだろうか。

例えば学校の文化祭で、地域の出し物で、季節のイベントで、何十人も集まっていたはずなのに、数人が『ちょっと都合がつかなくて』で抜けただけで、人数が減る以上に大勢の意思が減退した瞬間を。

人間の意思は『大勢で同じ方向を向いている』時は強固に維持される。

だが、意思が一つでないという意識が広まれば、その強固さを保つのは途端に難しくなるのだ。

 

理想的な異文化共生

文化は『単一の文化圏で、人が密集している』事によって活性を保つ。

先の例では『祭り』を例としたら、文化には他にも様々な面がある。

例えば信仰、例えば礼儀、例えば倫理、例えば禁忌……

他の文化圏から見れば、何故そうなったのか、が分からない価値観の集合体だ。

これらには無論、そうなった理由や基盤があるわけだが……同一の文化で過ごしている人にとっては、それは『当たり前』でしかない。

当たり前として受け継ぐうちに、理由や由来を喪失し、けれど大切に続けているものが、各々の地にもあるのではないだろうか。

だが、異文化を多く受け入れると、そうした『共通の価値観』も希釈される。

理由や由来も分からずに受け繋がれてきた文化は、外部から入ってきた大勢の人の『なんでこうなるんですか?』という疑問に耐えられない。

大切なのは受け継ぐ心で、受け継いできたのが形式なら、そこに『なぜ?』は必要ないし、残っていてもボンヤリした話で構わないからだ。

そして、仮に『由来』が残っていたとしても――その文化を大切にする理由を持たない人にすれば、それは『迷信』と呼ばれるものでしかない。

そして『迷信』という視点が入り込めば、文化は時間に耐える事が出来なくなるだろう。

文化を維持するのに必要なのは、『純度』なのだ。

(文化的熱死は『理想的に異文化共生が進んだ』事を前提に想定しているので、ここでは文化摩擦は無い物と考えているが、それでも純度が低下すれば文化は崩れる)

 

では、どうすれば理想的な異文化共生が実現するのだろうか。

私が思うに、その答えはそんなに難しい物ではない。

それは『適切な距離』を保つことだ。

ここで言う距離とは、以下の3つの距離の事を指している。

 

  • 物理的距離(共同体の単位)
  • 心理的距離(価値観の棲み分け)
  • 機能的距離(宗教・タブー・生活様式

 

この3つの距離をまとめて、『文化維持の三距離モデル』と名付けたい。

これらの距離を保つことで、文化は互いに過度な影響を及ぼす事無く、安定して存続することが出来る。

そして『住み分け』という距離を取ることで、互いに『尊重しあう』という『異文化共生』の形が完成するのだ。

では、それでも無理に距離を詰めた時、そこでは何が起きるのだろうか。

 

文化対等論

文化とは、互いの土地に根差した異なる価値観である。

それは土地、地形、気候、災害といった環境を地盤に、宗教、言語、美感、生活といった要素で形作られる。

これらには違いはあれど、優劣は無い。

ちがう文化圏の人間には、受け入れ難い内容もあるかも知れない。

理解できない風習もあるかも知れない。

だが、それに優劣をつけるのは彼らの継承してきた歴史への侮辱である。

その文化を変更する資格があるのは、受け継いできた彼らだけなのだ。

 

だから、近すぎる距離は逆に――危険となる。

理解できないもの、受け入れられないものとは、大勢にとって恐怖だからだ。

人は恐怖と同居できない。

なのに無理に距離を詰めると、衝突もし易くなるし、相手を理解できる型に押しはめようとしてしまう。

よって、もし文化を強く保持したまま無理に距離を詰めた場合、文化を守るための互いの衝突か、妥協しあった互いの希釈という結果を招く可能性が高いだろう。

適切な距離を保つこと、それが互いに文化を維持することに繋がり――外部から理解し合うことで、『受け入れられなくとも、尊重は出来る』という文化の両立。

互いに上下なく、認め合う関係を作ることが出来るのだ。

私はこの考えを、『文化対等論』という名前でまとめている。

 

まとめ

異文化共生、その理想は美しい。

だがその美しさは、互いに愛すべき文化を持つ者同士の交流あってこその物だ。

全てを混ぜ合わせ、互いが互いを拒絶しなくなった時、そこに残るのはもう、希釈された文化と、互いにし刺激し合うことのない停滞のみ。

つまり文化の死だ。

私はこの状態を、熱力学の第二法則になぞらえ、『文化的熱死』と名付ける事にした。

 

美しい理想とは、繊細なバランスの上に建つ奇跡のような物だ。

だが、繊細なバランスとは、静止して保てるものではない。

動き、循環し、動的に保つものだ。

異文化共生、それを保つエネルギーがどこから来るのか、人はまずそれを知るべきなのかもしれない。