国債の金利って本当に必要?――アメリカの利払いは140兆円(※本記事でいう国債とは、すべて自国通貨建て国債のことです)

疑問のきっかけ

最近、YouTubeで「アメリカが自国国債金利で苦労している」という動画を見た。
そしてふと思った――国債金利って、そもそも必要だろうか? と。

昨今、「税は財源ではない」という論調を目にする機会は多い。
すると財源は「国債」ということになる。これは良い。
……では、その財源として発行された国債金利 は一体どうなるのか?

今回は、当たり前のようについている「国債金利」を考えてみたい。

 


今の国債の位置づけ

以前も触れた、「国債は国の借金ではなく、通貨発行の履歴(指示書)にすぎない」という考え方。

この考えは妥当だと思うが、そもそも国債は理論の上で発生しているのではなく、現在の問題として発生しているわけだから、まずは現状整理から入ろう。

日本政府は、日銀に直接国債を売ることはできない。
これは 財政ファイナンス禁止(日本銀行法第5条・財政法第5条) というルールで、「政府が日銀に自由に国債を売れると、歯止めなくお金を発行し、ハイパーインフレになる危険がある」という心配から作られた法律だ。

よって、国債は一度「市中の銀行」に購入され、その後、日銀は「市中銀行」から国債を買うことになる。

  • 「政府→日銀へ直売」はNG

  • 「政府→市中銀行→(市場を経由して)日銀へ」はOK

……まるでパチンコ屋の三店方式だ。

ちなみに、2023年末時点での報道によれば、日銀は日本国債の『53.78%』を保有している。つまり「財政ファイナンス禁止」は形骸化しているのが明らかな、正直あるだけ無駄な法律と言える。

結局のところ、政府が国債を発行すれば、最終的に日銀が引き受ける。だから国債は「通貨の発行指示書」に過ぎないという見解(MMTや無限財源論の立場)につながるわけだ。


そもそも金利はなぜ存在するのか?

ここで疑問が浮かぶ。

国債が「通貨発行指示書」にすぎないなら、なぜ金利が存在するのか?

通貨を直接発行すれば金利は発生しない。
なのにわざわざ「国債」という形で発行し、そこに金利を付けている。

合理的な意味はあるのだろうか?

実は、今となっては合理性は消えている。だが、かつては意味があった。
それが「金本位制」の時代だ。

当時、通貨の裏付けは「金」だった。
国は通貨を刷れても、金を作ることはできない。だから市場から金を集める必要があった。

そのために「国債」を発行し、金利をつけて投資家に金を貸してもらった――これが国債の起源であり、金利の理由だったのだ。

しかし現代は違う。
通貨に金の裏付けはない。国が作れない「金」を集める必要は消滅している。
つまり、金利をつける合理的理由はすでに存在しないのである。


今ある金利の意味

ではなぜ今も国債金利が付いているのか?

最も説得力のある答えは――伝統
「昔からそうだったから」という理由に過ぎない。

さらに言えば、次の二つの都合もある。

  • 市場構造の都合
    市中銀行に買ってもらうには金利が必要」という口実。しかし本質的には日銀が最終的に引き受けるのだから、無意味に近い。というか、政府が無駄に金利を払う事になるだけ有害でしかない。

  • 利権の都合
    国債を持っているだけで金利が入るのだから、富裕層や機関投資家にとっては「無くすと損」になる。よって、国債金利がついて当然、という認識が続く以上、それを維持した方が利益となり、学者や研究者は疑問を抱くことはあっても、黙らざるを得ない場面もあるのだろう。

つまり現代における国債金利の存在理由は、国家の都合ではなく「得をする人々の都合」だと言わざるを得ない。

なお、私は特に不興を買うスポンサーなんていないので、不合理には遠慮なく不合理と発言する。


まとめ

国債金利が必要だというのは、もはや古い時代の価値観の継続に過ぎない。

市中銀行に買ってもらうために金利がいる」というのなら、直接中央銀行に売った方が合理的で賢い。
そして「インフレの危険」を理由にするのなら、むしろ 金利によってお金が自動で増え続ける仕組み の方が、よほど危険ということになる。

その実例が、毎年膨大な金利を支払っているアメリカだ。

なんせ2025年の利払いは9520億ドル(日本円にして約140兆円)も予測されているのだ。

この金利が『市中銀行国債を買ってもらい、インフレを抑制するために必要なんだ』という主張は合理的ではないと言わざるを得ない。

金利はすでに、インフレの歯止めではなく、むしろ格差拡大や資産集中を促進する装置となり、抑制したかったはずのインフレの進行さえ手助けしている。

国債金利――今さら疑問に思う人の方が少ないテーマかもしれない。だが、素人だからこそゼロベースで抱ける疑問こそ、新しい視点の出発点になるのではないだろうか。