日本語の力(仮称)執筆報告——第三章『日本語が表現したかったもの』全文公開(Writing Update on The Power of Japanese (Working Title): Chapter 3, “What the Japanese Language Wanted to Express,” Now Available in Full)

 

現在執筆中の『日本語の力(仮称)』より、第三章「日本語が表現したかったもの」を試読版として公開します。

(タイトルは仮称であるため、予告なく変更される場合がございます)

本章だけでも日本語論として読める内容ですが、本著においては、ここまでが前提の整理となります。

文法、主語の省略、助詞、敬語、擬音語・擬態語、そして文脈依存を通じて、日本語が何を表現しようとしてきた言語なのかを整理しています。

なお、本章は約1万3千文字となります。

 

This article is a preview of Chapter 3 from my upcoming book, temporarily titled The Power of Japanese.

The chapter examines Japanese not merely as a tool for transmitting information, but as a language that expresses the speaker’s thoughts, feelings, relationships, sensory impressions, and shared context.

Through grammar, subject omission, particles, honorifics, onomatopoeia, mimetic words, and context dependence, the article argues that Japanese is a language designed not only to convey facts, but also to convey the self and the atmosphere surrounding communication.

 

第三章 日本語が表現したかったもの

まず結論を言おう。

日本語が表現したかったもの、それは『自分自身』だ。

おそらく、日本語の全ての構造は、最終的にはそこに繋がっている。

季節の表現だけではない。

例えば文法、例えば擬音語・擬態語、例えば敬語、例えば助詞……日本語はすべて『自分がどう考えたか』『自分がどう感じたか』を伝えるために発展してきたように見える。

その日本語の解像度を、本章では一つずつ見て行こう。

 

第一項 日本語の文法

知っての通り、日本語の文法は『SOV型』となる。

つまり、“私は/何を/どうする”型だ。

情報伝達において最重要の『どうする』が最後にくる。

これは、英語等の『SVO型』に比べれば、『情報伝達』においては不利となる。

SVO型とはつまり、“私は/する/何を”の型だ。

日本人にすればいささか不自然に見えるが、しかしこの型は『情報伝達』においては有利と言える。

理由は簡単、『結論』が明確だからだ。

結論が先にあり、後の説明はその『結論の補足』となる。

これは『情報伝達』において極めて合理的と言える。

何せ、『結論』が先にあれば、勘違い、聞き間違い、考え違いが大きく減少する。

先に『どうしたいか』が明確であれば、後の情報がすべて補足説明となり、それに対する疑問や質問も明確になるからだ。

例えば、私はこうして本を書いているわけだが、この行動を英語式である結論を先に置く説明形式として文章とするならば――

『私は本を書いている、何故ならば世界はまだ日本語という言語の本当の力を理解していないと思うからだ』となる。

私は日本語オンリーなので、実際のSVO型の文法はやや異なるかも知れないが、しかし『結論』を先に置く文章としてはこうなるだろう。

だが、『結論』が最後に来ると話が変わる。

『私は日本語という言葉の本当の力が、まだ理解されていないと思うから――』

のあとに続く言葉が、『本を書いている』なのか『それを知るよう人々に訴えている』なのか『その言葉を研究している』なのか、はたまた『国語教師を目指した』なのか、サッパリ分からない。

これは声に出しても短い言葉だから問題は少ないが、長い言葉を並べた場合、『前提情報』が先に並ぶと、人は『結論を考えながら』聞くことになる上に、『ここまで言えば分かるだろう』で話が切り上げられれば、それこそ、本当に同じ結論に到達しているのか自体が不明になる。

最後に全てがひっくり返される、そんな結論が出る事もあるかも知れない。

しかも、話す側が結論を言う前に、『その前提ならこうなるな』と聞く側の方で結論が出てしまう事もあり得る。

伝わった、と思ったら勘違いだった、という経験は誰しもあるのではないだろうか?

それは確かに確認不足、という要素はあったかもしれない。

だが、そもそも日本語という言語自体が、『そういう勘違いを発生させやすい構造』をしているのだ。

うん、こうして見ると、日本語は情報伝達の道具としては大きな欠点を持つ。

何せ『情報伝達』に支障をきたしている。

しかも、日本語と言えば世界でも『高難易度』で知られた言語だ。

その評価は、全く違う言語圏から見た相対的なランキングであって、必ずしも日本語の絶対的難しさを保証するものではないわけだが、それでも、この文章の時点で『平仮名』『カタカナ』『漢字』が並んでいるのだから、その複雑性は中々の水準と言えるだろう。

言葉にせずとも相手に伝わるハイコンテクスト言語、と言えば格好良さげだが、本当に伝わっているかどうかは神のみぞ知るところである、というのだから酷い。

複雑、難解、それでいて相手に正しく伝わっているかは未知数と言うのだから、なるほど、日本語は情報伝達で考えれば大いに問題があると言えるだろう。

――いや、お前は日本語を賞賛する立場ではないのかよ、と思う人もいるかも知れないが、そもそも私は日本語を賞賛する気などない。

ただ構造に忠実であろうと、そう考えているだけだ。

そして、日本語が情報伝達において欠点を抱えているのは、構造的に考える限り事実である、というだけの話だ。

しかし構造に忠実であるならば、『情報伝達において明確な欠点を持つ言語が、それでも継承されているならば、違う利点があるはずだ 』、という発想を得るのは難しくない。

非合理だけど奇跡的に続いてきた、と考えるよりも、『違う合理性がある』と考える方が、継承が続いた理由として自然だからだ。

では、日本語の合理性とは何だろうか?

それが本著でのテーマ、『思考の道具としての言語』ということになる。

 

人は思考を行う時、いくつかの手段がある。

映像で考える、動かして考える、無数のアイディアから共通点を拾う、意識的にしろ無意識的にしろ、様々な『考える手段』はある。

だが私が思うに、最終的に高度な思索を研磨するには、『言語』が必要になるのではないだろうか。

確かに映像や動きで直接全て考えられるなら、そちらの方が複雑かつ繊細な思索が出来るかも知れない。

だが、それは非常に困難だし、もしそれをやるとしても、『ではこの要素が加わったらどうだろう?』と一手加えるのは、言語が使われる。

『言語』というのは思考その物に関わってくるし、その解像度の高さは思考の細かさに関わってくる――と、ここまでは単語でも出来る。つまり、どの言語体系であっても関係ない。

だが、日本語はここから先の研磨で役に立つ事になる。

日本語は先にも言った通り『SOV型』の言語。

つまり結論が最後にくる言語だ。

これは情報伝達では様々な問題を発生させた。

だが一方で、『思考の道具』として考えた場合、結論に至るまでの前提、条件、感情、状況を先に並べることが出来る、という事だ。

つまり、『条件を足すことで思考を修正していく』という事が出来るわけだ。

例えば私は、文化素子論を作る時、こんな手順で考えていた。

 

文化摩擦を改善する理論が欲しい(動機)→

文化も人が認識する物であるなら最小単位があるのでは?(仮定)→

しかし文化の意味は複雑すぎてとても絞れない(問題)→

文化摩擦は現実の問題なのだから、改善に個々の文化の詳細な中身は不要では?(仮定)→

そもそも人間が世界に影響を与える手段は筋肉しかない、つまり挙動を見れば良いのでは?(問題の絞り込み)→

では人の動きから文化的行動とは何か、を探してみるため、とりあえず過去へ過去へと考えを遡らせてみよう(手段の結論)

 

という具合だ。

仮定や前提を積み重ねて、問題の範囲を絞って作ったのが『文化素子論』であるので、『条件を足すことで思考を修正していく』という過程が分かり易いのではないだろうか?

 

これは、先に結論を決めて、その説明を後から付け足す思考とは異なる。
むしろ、結論に到達する前に、前提、条件、制限、例外、違和感を並べ、それらを削り、接続し、最後に残った方向へ結論を置く思考である。
よって日本語式の『SOV型』文法は、結論を説明するための思考ではなく、結論を生成するための思考であると言えるわけだ。

無論、この文法構造が理論生成に向いているのは、結果論に過ぎない。

当たり前だが、最初から『理論を作るために言語を設計しよう』と考えてこの形になったわけではないだろう。

もっと発想は単純。

人間は必ず、『入力』(内外からの影響)があってから『出力』(感想や行動)が発生する。

日差しを浴びる、という『入力』があって、暖かく感じるという『出力』がでる。

お腹が空いたという『入力』があって、食事をとるという『出力』が出る。

つまり何事も『入力』が先なのだ。

日本語はその手順に従っているに過ぎない。

つまり、『感じたこと、考えたことを、そのまま言葉にしよう』とした結果が、おそらくこの文法に繋がったのだ。

無論、言語である以上は『他人に伝える』のが前提になる。

すると、SVO型とSOV型は、そもそも伝えたいものが違うという話になる。

SVO型』は、まず自分で情報を咀嚼し、分析し、考えをまとめてから結論を伝えるという、『情報伝達』を目的としている。

だが『SOV型』は、とりあえず自分が感じた事、思いついたことを並べ、最終的にそれらを総合して結論を出すという、『思考経路の伝達』を目的としている。

 

そして、日本語の目的を『情報伝達』ではなく『思考経路の伝達』、つまり『自分自身がどう感じ、どんな手順で考えたかの伝達』であるとするならば、情報伝達の為の言語である、と考えた時に違和感があった部分が、綺麗に収まるのである。

 

第二項 主語の省略

さて、以上の説明から日本語は『自分自身を表現』することや『思考の経路を伝達』することに強みがあるという事が、文法構造から読み取れると思うわけだが、こうなると思いつくことが一つある。

それは、『主語、必ずしも要らないよね?』という事だ。

理由は簡単、日本語は『結論に至るまでの思考経路』に強みがある、しかし思考経路は“前提”や“条件”といった『道筋』であって、それらの主体を『誰が』という形で固定する必要性が無いのだ。

例えば――

『寒いな』『まずいな』『これは違うな』『たぶん無理だな』『そろそろ動くか』『ここが問題だな』……これらは『結論を伝達する言語』であれば、『誰にとっての結論なのか』を整理したくなるところだろう。

だが、日本語では違う。

これらは日本語ならば一言で機能する。

何故ならばそれらは、『今その場に生じた認識』や『その状況への反応』や『思考の途中で浮かんだ判断』という認識や思考の断片だからだ。

日本語OSで動く思考は、発せられた言葉が『感想』や『思考の断片』であって『結論ではない』という事に慣れている。

加えて、『前提』や『条件』やそもそも『誰にとっての』を限定する必要さえ薄い。

『寒いな』や『暑いな』という一言は『環境の提示』であって、それは大勢に当たり前に共有されている物だ。

大勢に共有されている前提があるならば、そもそも『誰にとって』を限定する必要が喪失する。

違う感想を持つ人は、『いや、そうでもないよ』と言うかも知れない。

だが、共通の認識を持っている人もまた大勢いる。

つまり、違う感想を抱く人が当然いるとしても、その場で最初から『誰にとって』を限定する必要性は薄いのだ。

無論、主語が無ければ意味は曖昧になる。

『誰にとっての』かが分からない上に、共通の認識になるとも限らない。

だがそれで構わないのだ。

感想や思考の断片は、情報の欠片程度の物であって、結論ではない。

寒いから、温かいものでも食べるか。

熱いから、涼しいところで休むか。

認識が共有されたり、何かを考える起点になることもある、加えて言えば『誰が』が明白なケースはそれをわざわざつける必要も無い。

だが同時に、この『主語を省略できる』という曖昧性そのものが、意味を持つこともある。

曖昧な情報や認識を、曖昧なまま保持できるというのは、思考において『無数の可能性を保持している』というのと同義だ。

例えば、『今日も暑くなりそうだな』と考える。

この時点では情報は曖昧だ。

だがそれが『私にとって』なのか『子供にとって』なのか『両親にとって』なのか、はたまた『そう感じる人が多そうだな』なのかで、意味が変わる。

実は当人は暑さに強くて、そんなに暑いとは思っていないかも知れない、だが『子供にとっては暑そうだ』となれば、暑さ対策をさせることになるし、一緒に働く同僚が暑さが苦手だったな、となれば熱中症対策について話すかも知れない。

つまり『曖昧な情報』をとりあえず保持しておくことで、『誰にとって』という主語が入った途端に、情報が収束するのだ。

日本語は、主語を固定しないことで情報を確定させず、広がりを持たせている。

そしてこれは、情報の伝達、という面でも意味を持つことになる。

何故なら、『私はこう思う』がそれだけで強調になるからだ。

日本語では主語が省略できるからこそ、逆に、

 私はこう思う
  私にはそう見える
   私としては違うと思う

と書いた時に、「個人的観測である」という強調になる。

主語を常に出す言語では、主語は構造上必要な部品になりやすい。

しかし日本語では、主語を出すこと自体が意味を持つ。

つまり、日本語における主語の省略とは、『思考』と『伝達』の両面で意味を持つ。

 

思考としては、『無数の可能性の保持』――

伝達としては、『自身の一般認識の伝達』と『主観の強調』――

 

日本語は曖昧な言語ではない。

曖昧であることに意味を見出した言語なのである。

 

第三項 思考の接続点――助詞

さて、第三章はここまで――

文法  :思考経路を作る

主語省略:思考の主体を固定せず、認識を保持する

と並んできた。

だが、主体がないまま認識を保持しても、思考はバラバラになってしまう。

では、それを繋げる役割をするのは何か?

それが『助詞』だ。

私『は』/私『が』/私『も』/私『なら』/私『には』……といった、『SOV型』のSOの間に挟まる部分である。

厳密な定義というわけではないが、ザックリと分類するならば――

 

「は」=視点の設定

「が」=焦点の設定

「も」=集合の拡張

「なら」=条件の提示

「に」=到達点・対象の設定

「で」=場・手段の設定

「を」=対象の指定

「から」=起点の設定

「まで」=範囲の終点

 

という具合だろうか。

つまり助詞とは、ある言葉に対して話し手がどう考えているのか、その言葉を文の中でどこに置き、何と接続し、どこに焦点を置くのかを、僅か数文字で示す、思考同士の接続点なのだ。

それ自体は具体的な対象を指すわけではない、言葉や文章に『方向性』を与えるための部品なのである。

うん、小説などでもどんでん返しで良く使われるのがこの機能だ。

とはいえ、それ自体は具体的な対象を指すわけではないので、省略してもソコソコ通じる。

しかし、細かい意思疎通では必須になるわけだ。

 

ではここで、この僅か1文字2文字がどれくらい単語同士の関係を変えるのか見てみよう。

私は今ちょうど『本を書いている』ので、テーマは『書く』だ。

 

私は書く

私が書く

私も書く

私なら書く

私には書ける

 

素材は『私』という個人と『書く』という行動だけだ。

しかしそれだけでこれだけ分岐する。

 

私は書く:書くという行為の宣言、意志の表明に近い

私が書く:私の側に焦点を当てた、書くという事の宣言

私も書く:既に書いている他人が意識されている

私なら書く:自分は書く主体ではなく、相手のテーマに対する自分の望む行動

私には書ける:能力・適性・立場として書くことが可能であることの表明

 

先にも書いた通り、素材は『私』という個人と『書く』という行動だけだ。

だが、助詞が入ったことで、『私』と『書く』という意味について、何を焦点としているかと、主観の距離感が明確になった。

これは思考においても重要な意味を持つ。

何故なら、『助詞を変える』という事は『焦点を変える』という事、つまり『思考の視点を変える』ことに繋がるからだ。

何かを考える時、『視点を変える』のは重要である、と考える人は多いかと思うが、日本語の場合は小さな切っ掛けであれば、『助詞を変える』だけ作る事が出来るわけだ。

自分が対象をどう考えているか、どう感じているかを、助詞によって細かに調整することが出来るわけだ。

これもまた、『自分自身がどう感じているかの表現』と言えるし、自分自身がどう感じているかを細かく調整し認識できるなら、それは思考の足場になる。

言葉が世界の解像度なら、日本語における助詞は、その焦点距離の調整と言えるわけだ。

 

第四項 関係性と自分の位置の表現――敬語

さて、あまり思考の道具とは関係ない気がするが、助詞を『焦点距離の調整』といったのであれば、忘れてはいけない要素がもう一つある。

それが『敬語』だ。

日本語の敬語表現は、難しく複雑である、という事で知られている。

だが、ここでも一度立ち止まって考えてみよう。

なぜ、日本語はここまで複雑な敬語表現を必要としたのだろうか。

単に情報を伝えるだけならば、敬語は必ずしも必要ない。

「行く」と言えば、移動するという情報は伝わる。

「言う」と言えば、発言するという情報は伝わる。

「見る」と言えば、視覚によって確認するという情報は伝わる。

情報だけならこれで良い、だが、情報だけの会話は人間関係に摩擦を生む。

円滑な人間関係の構築には、相手への敬意を示すことのできる、丁寧な表現が必要なのだ。

だから、『敬語』の存在自体は不思議ではない。

私は世界の言語を網羅していないどころか、英語さえチンプンカンプンなわけだが、それでも、相手への敬意や距離感を示す表現は、多くの言語に存在するのは想像に難くない。

名前に敬称を付ける言語もあれば、丁寧な依頼表現を使う言語もあるだろう。

また、親しい相手と改まった相手で二人称を使い分ける事も珍しくはないだろう。

しかし、それでも日本語の敬語表現が難しく複雑であると言われるのは、おそらく日本語の敬語が表現の多さだけでなく、『使う相手との距離』まで含めて成立しているからではないだろうか。

例えば、人の移動に対して、日本語は以下のように表現が分かれる。

 

相手が自分のところへ来るなら『いらっしゃる』

自分が相手のところへ行くなら『伺う』

ただ丁寧な表現をするなら『行きます』

 

実際に自分のところへ来た相手を歓迎する言葉はさらに複雑になる。

『いらっしゃい』『いらっしゃいませ』『ようこそいらっしゃいました』『ご訪問いただきまして』……ここに更に『遠いところわざわざ』とか『遠方からはるばる』とかの言葉も付いたりする。

この表現は、自分と相手との関係性によって変化する。

つまり日本語における敬語とは、ただの丁寧な言い回しではない。

自分と相手との関係性を表現する、人間関係の距離を計る言葉なのである。

 

とはいえ、こうして整理すると改めて、『そんな複雑な表現が必要だったのか?』と思う人もいるだろう。

結論から言えば、情報を伝えるだけなら過剰、丁寧な言い回しで人間関係の摩擦を低減するには確かに有効だが、それでもまだ過剰だと感じられる。

しかし、こう出来上がったからには、こう出来上がるだけの必要性、意味があったはずである。

ここで思い出して欲しい。

言語に機能を要請するのは、その土地の文化だ。

寒い国で氷の分類が多いのも、遊牧民の馬の分類が多いのも、どちらもその土地の文化に根差すものだった。

そして、私には日本語がここまで複雑な敬語表現を持つに至った理由を、説明できる理論が手持ちにある。

文化素子論だ。

文化素子論において、日本文化は『譲歩』と『共感』に特化した文化であると整理される。

この中で、重要なのは『譲歩』である。

『譲歩』というのは、ただ相手の主張を認める事ではない。

互いの主張のうち、譲れないものと譲れるものを整理し、今後の関係構築まで含めて『どのラインまでなら譲れるのか』を見極める繊細な作業だ。

そしてこの作業には、非常に重要な要素が存在する。

 

それは『互いの距離感』だ。

 

距離が遠い相手ならば、譲歩すると言っても今後の関係構築まで考える必要性は薄い、逆に、距離が近い相手ならば、今後の良好な関係を考えて、譲歩を大きくすることもあるかも知れない。

互いに互いの要求の真意が分かっていれば、互いに半歩ずつ踏み込むような、繊細な調整も可能になるだろう。

譲歩とは、『互いの距離感』を見極めねば成立しない文化素子なのだ。

そう考えれば、日本語の敬語が『互いの関係性』によって形を変えるのも、それが文化の設計から来る言語への要請だったことが分かってくる。

日本語の敬語で重要なのは、単純な『目上か目下か』だけではない。

むしろ実際の運用では、『身内か他人か』『近いか遠いか』『公的な場か私的な場か』といった距離感が強く働く。

だから、身内には丁寧な言い回し程度の丁寧語で構わないが、他人が相手になった場合、相手を立てて敬意を示す尊敬語や、自分を低くして相対的に相手を立てる謙譲語という具合に、距離によって敬語を使い分けるのである。

近年は、いわゆるマナー論の中で、『様』は目上、『殿』は目下に使う、といった単純化された説明を見かけることもある。

だが、こうした説明は、日本語の敬語を上下関係だけで処理しようとするため、かえって本来の距離感を見失わせるように思える。

敬語とは、単に相手が上か下かを判定するための道具ではない。

相手との距離、場面、自分の立場、内外の関係を調整するための言葉なのである。

 

日本語における敬語表現は、確かに複雑で繊細だ。

だがそれは、単に日本人が礼儀正しかったから、という話ではない。

世界の多くの言語にも、敬意や距離感を示す表現はある。

日本語の特徴は、その敬意や距離感が、単なる礼儀表現ではなく、自分と相手の距離、内外、立場、場面を測るための表現体系として発達している点にある。

そして、そのような表現体系が必要とされた背景には、譲歩を重視する日本文化の要請があったのではないだろうか。

少なくともそう考えることで、日本語の複雑な敬語表現を、ただ難しいものとしてではなく、人間関係の距離を計るための言葉として理解し、整理することが出来るようになる。

世界の多くの言語にも、敬意や距離感を示す表現はある。

だが日本語では、それが単なる礼儀表現ではなく、自分と相手の距離、内外、立場、場面を測るための表現体系として発達しているのだ。

 

第五項 感覚の言語化を目指した言葉――擬音語・擬態語

さて、理論生成には関係ないと思うが、しかし日本語の書籍を書くならば、やはりこれらは外すことが出来ない。

擬音語・擬態語、聞こえてくる音に文字を当てた擬音語と、『音のない動きや感覚』に文字を当てた擬態語だ。

本来なら別々に扱うべきなのだが、ここは本筋に対して余談でもあるし、今回は『感覚を文字にしている』という機能で統一し、この本項でまとめることにした。

さて、擬音語と言えばパッと思いつくのは、雨の音を文字にした『シトシト』『ザーザー』や、犬や猫の鳴き声である『ワンワン』や『ニャーニャー』のような文字だろう。

一方、擬態語と言えばパッと思いつくのは、期待に胸が膨らむ『ワクワク』や、感触を文字にした『フワフワ』や『カチカチ』、痛みを示す『ズキズキ』や静寂を示す『シーン』なんかも入ってくる。

当たり前だが、擬音語・擬態語は『音や状態を正確に説明する』ことを目指した言葉ではない。

感覚をそのまま、言葉に近づけようとした表現である。

例えば、先ほど擬音語の雨の表現に『シトシト』と『ザーザー』を持ってきたが、これらは『情報伝達』として考えるなら、必ずしも必要な表現ではない。

シトシトならば『雨が弱く降っている』、ザーザーならば『雨が強く降っている』と言えば、『雨の降り方』の情報伝達としては充分と言える。

では、なぜ日本語は『シトシト』や『ザーザー』といった、擬音語を作ったのだろうか?

私は先ほど、日本語の敬語表現の複雑さを、文化素子論の『譲歩』から考えた。

そして同時に、日本語の擬音語や擬態語といった表現を、『共感』を重視する日本文化の要請があったのではないか、と考えている。

例えば、『雨がシトシト降っている』と言えば、それは雨音の小ささだけでなく、空気の湿り気、辺りの静けさ、どことない肌寒さ、情景の暗さが連想される。

あるいは『雨がザーザー降っている』と言われれば、激しい雨だけでなく、雨音の大きさ、さえぎられる視界、外に出るのが億劫になる感覚を、そこから拾うことが出来る。

日本語とは先にも述べた通り、『自身を表現する』ことに強みのある言語だ。

それは、別に自分の説明、というわけではない。

自分の感じた情景、覚えた感覚、その場の空気感の表現を目指した言語である、という意味になる。

では、擬態語はどうだろうか?

こちらはさらに特殊な表現になる、何せ、『音が無い物』を音で表現する言葉なのだ。

例えば痛み、刺すようなとか、殴られたような、という表現はどの国の言語でも可能かも知れない。

だが、『ズキズキ』や『ガンガン』といった表現で、その痛みがどういったものであるかを説明する、というのは本来なら難易度が高すぎるはずだ。

何故なら、痛みという個人によって同じとは限らない、音などするはずのない感覚を、音で表現して伝達しようというのだから、中々に無茶苦茶な話であると言える。

だが同時に、その無茶苦茶を押し通せてしまっているのもまた事実だ。

なぜそんなことが可能なのだろうか?

これは私の主観だが、おそらくは、『語感』から感じる印象のせいではないだろうか?

例えば『あいうえお』の各段の印象は、私の主観だが音としてはこうなる。

『あ』の段:開かれている、少し柔らかい、明るい

『い』の段:鋭い、尖ってる、少し軽め、張り詰めた感じ

『う』の段:丸め、少し重め

『え』の段:力が抜ける、一番軽い

『お』の段:閉じられている、力が強い、一番重め、暗い

『ん』  :強調される、動きはない、立ち止まる

細かく分けたら無数に分類が発生しそうだが、『音』に対する印象はこんな感じに分かれる。

これが基本的に、その段に存在する音の、ある程度共通した印象の方向性となるわけだ。

更に、『゛』で濁った感じ、『゜』で膨らむ感じ、というような印象も受ける。

これを『ズキズキ』に適用すると、『少し濁った重めの印象の音』と『少し軽いが尖った印象の音』となる。

つまり、『重く濁った感じ』と『鋭い刺激』の組み合わせが繰り返されている表現だ。

『ズン』に受ける沈むような重さではなく、『ズ』で最初に沈むがそこまで重くならず、『キ』で細く刺すような感覚が混じる。

面白いのは音がしない様子を示す擬態語である『シーン』だろう。

『静寂』や『音がしない』ではなく、その様子を『音』にして表現した擬態語だ。

気分的には、耳鳴りがするような静寂、といったところだろうか。

少し張り詰めたような印象、伸ばす音と『ん』で方向性のないままそれが強調されているように感じられる。

個人的には『キーン』あたりでも候補になったと思うが、それでは少々鋭すぎる気がするので、やはり良い塩梅に作られているように感じられる。

 

もちろん、これは厳密な言語学的分析ではない。

あくまで、私自身が日本語の音から受け取っている印象である。

 

だが、擬態語とはそもそも、そのような主観的な印象を共有しようとする言葉ではないだろうか。

痛みそのものは他人に渡せない。

感触そのものも、気配そのものも、他人に直接渡すことは出来ない。

だから日本語は、その感覚に近い音を当て、文字として固定し、他者に共有できるようにした。

これは、各音そのものに、ある程度共有された印象がなければ成立しない。

誰かに明確に教わったわけではない。

それでも多くの人が、音そのものから似たような印象を受け取る。

その共通化された印象があるからこそ、擬音語・擬態語は、個人の感覚を他者と共有するための言葉として機能するのではないか。

そして、『印象』というのは実に膨大な情報を含む。

曖昧な情報だからこそ、様々な意味に収束しうる。

印象は似通る、だが受け取る情報は千差万別、しかしそれなりに共通性は出る。

言葉で説明しても、もともと個人の感覚であるので、具体的に相手に伝わる物ではない。

それを、音の印象を頼りに最大限圧縮した情報。

それが『擬音語・擬態語』であるように思えるのだ。

うん、何もかも主観である上に、私は完全に個人で思索を深めていく都合上、サンプルが私一人という、実に心もとないデータしかないわけで、こればかりは『大勢の印象の統計』を取ってみたくなる話だ。

いきなり『音の印象を文字にしてください』と言われても難しいと思うので、まず『印象の候補』を無数に挙げて、その印象を当てはまる音に当てはめていってもらう、というようなデータ収集作業になるのかも知れない。

 

まぁ、印象は印象でしかないし、この項は基本的に『私の主観』だし、具体的根拠を求められても、『感覚』に頼る都合から具体的根拠も今のところない。

本著の主題から見れば、擬音語・擬態語の詳細な分析は余談に近い。

だが、日本語が『世界そのもの』だけではなく、『世界に触れた自分の感覚』までも表現しようとしてきた言語であると考えるなら、擬音語・擬態語はその特徴がもっとも分かりやすく表れた言葉でもある。

 

その意味で、擬音語・擬態語とは、言葉に整理すると伝えきれない感覚を、ひとまず文字として置いた表現なのかもしれない。

 

第六項 言わずに伝え、書かずに読ませる――余白・文脈依存

ここまで、日本語の文法、主語の省略、助詞、敬語、擬音語・擬態語について見てきた。

 

ここまで説明してきたことは別に、日本語特有の機能というわけではない。

だが日本語は、それぞれの特徴を強く持った、総合して特徴的な言語という事は出来る。

というか、これらの特徴を意図的に伸ばしていない言語も多い事だろう。

理由は簡単、『具体的な情報伝達の効率』が低下するからだ。

文法の説明の時にも言ったが、情報伝達の効率、という点で見るならば、SOV型言語よりも、SVO型言語の方が設計上優れている。

主語は省略することで意味を作れる面もあるが、省略しない方が間違いが少ない。

日本語が複雑に進化させた助詞に至っては、別になくても言語は成立する。

敬語表現は社会維持に重要な要素だが、これも情報伝達の面で考えるなら、そこまで複雑化する意味は薄くなる。

擬音語・擬態語に至っては、音自体に『感覚の共有』が必要になるし、そこまでやっても『本当に意図した情報が伝わっているか』自体が未知数だ。

つまり、日本語の特徴はすべて、『情報伝達の効率』という面で見れば『そうする必要は何かあるの?』という物が並ぶことになる。

無論、これまで説明してきた通り、利点も色々ある。

だが、利点と欠点は表裏一体。

日本語の設計が『情報伝達の効率』に対して非合理である、というのはまぁ、その通りであると考えた方が妥当なのだろう。

 

だが、それらの特徴が揃う事で、日本語の本当に伝えたかった物も見えてくる。

それは『空気』だ。

文章を書いている側としては中々あるまじきことだが、日本語は『文そのもの』だけで意味を完結させようとする言語ではない。

文の外側にある情報――話し手と聞き手の関係、その場の状況、共有された前提、そしてそれらが集まることで出来上がるその場の空気感――そこまで含めて、意味を成立させようとする言語である、という事だ。

そして、その特徴が最も良く表れるのが、『余白と文脈への依存』である。

 

真偽や出典は定かではないが、文脈依存の極致として、私はある手紙の逸話を思い出す。

戦時中、一人の女性が、離れて暮らす夫へ手紙を書いた。

しかし、送れる手紙は少なく、書ける文字も限られていた。

伝えたいことはあまりに多い。

しかし最終的に手紙に書かれた言葉はたった一つ、

『あなた』

文字として見れば僅か三文字の、この言葉だった。

だが、その三文字の外側には、夫婦として過ごしてきた時間、離れている不安、言葉にできなかった感情が置かれている。

『元気にしていますか』

『病気などしていませんか』

『食事はできていますか』

『無事な姿を一目見たいです』

これは、手紙のどこにも書かれていない。

だが、二人の関係や思い出、これまで交わしてきた会話が、その三文字の外側にある。

そして、書き手がその言葉を選ぶまでに、どれほど迷ったのかという時間までもが、その手紙の余白に刻まれている。

 

無論、この例は普通の情報伝達、で考えるならば完全に失敗している。

『あなた』だけでは、

 ・何をしてほしいのか

 ・何を報告したいのか

 ・何を確認したいのか

 ・何を頼みたいのか

具体的なことは何も分からない。

だが、夫に自らの思いを伝える文章としては、完成している。

否、夫という読み手が、その手紙の余白にある文脈を補う事で、思いを伝えたいという文章が完成する。

情報伝達としては不完全である。

だが、感情の伝達としては、これ以上ないほどに濃い。

日本語は、文に全てを書き込む言語ではない。

相手がその文面から感じる感情まで合わせて、完成する言語なのである。



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・この記事は日本語をどう整理しているか要約してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事における「日本語は自分自身を表現する言語である」という主張を説明してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事では、日本語のSOV型文法をどのように評価していますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事では、主語の省略や助詞にどのような意味があると考えていますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事では、敬語を単なる礼儀表現ではなく何として整理していますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事では、擬音語・擬態語をどのような言葉として説明していますか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事における「文脈依存」と「空気」の関係を説明してください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事の最後に出てくる『あなた』という手紙の例は、文脈依存の説明として有効ですか?

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000

 

・この記事の主張に対して、言語学的に注意すべき点や反論可能な点を挙げてください。

https://circulation-thought.hatenablog.com/entry/2026/06/28/120000